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2000. 2. 27. / February 27, 2000

ワープロ不要論
Discarding Word Processors?

  • 朝日新聞 2000年(平成12年)2月27日(日)朝刊 第40935号 4面
    外岡: 「閑話休題『ワープロ廃止論の重み』」

目次 / Contents

単なるアナクロニズムではない

Not a mere anachronism

Recently, increasing number of people with the literary circle in Japan insist that Japanese word processors should be discarded especially for such activities like writing novels and poems. This is not an anachronism; it is closely related to the fact that Japanese language should cope with Kanji characters, which poses a problem interesting from both technical and linguistic points of view.

The apparent difficulty of typing in wide variety of Kanji characters, the conversion mechanism is invented. An user will type in alphabet. Then it is converted with a very simple rule into Kana characters, the Japanese phonograms (some people key in Kana directly). Finally, the Kana characters are converted into Kanji by the conversion program. It guesses the meaning of the sentences input with Kana, and shows a candidate. Finally, the user looks through the converted Kanji, and make correction if necessary.

Therefore, it is very different from word processors for people using languages written in alphabets. In such languages, input actions when using a word processor are not so different from a mechanical typewriter. However, it is completely different in Japanese. Especially, the wrong conversion by the program irritates the writer when he has to struggle deeply with the words.

最近、 ワープロ不要論なるものが文壇を賑わしている。 主に2月27日の 「朝日」 朝刊を取り上げるが、 これ以前に週刊朝日が取り上げていたりする (参考文献1)。 この問題で急先鋒を走っているのは書家の石川九楊 (いしかわ・きゅうよう) 氏。 昨年 「二重言語国家・日本」 なる著書 (参考文献2) で、 国家の問題も言葉から紐解くことができるのだとばかりいささか強引な議論を展開している人だ。 この本、 高木も購入してはみたものの、 少々強引すぎる議論に辟易したというのが正直なところである。 ワープロを捨てよ、 ということの理由が 「筆触なくして言葉は生まれない」 ということなのだそうだが、 その割には言葉は磁場を持っていて、 それと電界が作用してどうのこうのとか、 電気工学的な知識をもってしても何をいいたいのかさっぱりわからない言葉を羅列してあったりする。 その言葉、 もともとが電気工学用語だからその知識がないとますますわからないのである!

まあこの本はともかくとして、 その石川氏が最近「文学界」2月号に 「文学は書字の運動である」 なる文章を寄稿したという。 教育の場や家庭からワープロやパソコンを放出せよ、 というのである。

何を極端な、 と思う方が (特にインターネット利用者の間には) 多かろうが、 これは単なるアナクロニズムではない。 英語と違い、 日本語はワープロの操作に 「変換」 というやつが入る。

「一太郎」 が 「入れた手のお茶」 とかいう宣伝を打っていたことが思い出されるが、 そのような吹き出してしまうような誤変換でなくても確かに悪い影響がある。 文章をじっくり書こうというとき、 あのような誤変換が間に入ることによって、 思考が中断してしまうのだ。

英語などのアルファベットで書かれる言語の場合、 ワープロはタイプライターの延長として存在する。 日本語のような 「変換」 はないから、 思考を乱されることはないのである。

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詩が書けなくなった

End of my poems

I used to write poems when I was in senior high school. However, I discontinued writing poems in 1986; it coincides with the days when I started using my own personal computer as a word processor! I quickly got used to it, and it did not take long before I was completely dependent when writing long texts. After that, I tried to write a poem using the word processor, and I found it impossible!
それがどんな影響があるというのか、 などという人は、 きちんと言葉という怪物に向き合う体験をしていないのだ。

高木は高校生だったころまで詩を大量に書いていた。 まあそんなに優れた作品ではなかった (だから現在も詩人として認められているわけではない) が、 詩を書くという行為は確かに言葉ともっとも濃密に向かい合う行為であると考えてよかろう。 ところが、 大学に入学した1986年を境にぱったりと書けなくなってしまった。

その1986年は、 実は高木が初めてパソコンを購入し、 コンピュータに向かってものを書く習慣をつけはじめた頃に相当するのである。

確かに、 ワープロは便利である。 原稿用紙による文章や詩の保存の煩雑さはときに耐えがたいものがある。 そのことがあり、 また大学に入学して詩からやや離れたこともあって、 大量の文章をワープロで打つようになった。 高木にとってそれが文章を書くための必需品と化すまでにそう長い時間はかからなかった。 ところが、 そのあとで詩をまた書いてみようという気になったとき、 何度かやってみたのにワープロに向かって詩は書けなかったのである。

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「言葉」を「労働」に搾取させる道具

Machine that makes "labor" exploit "words"

My last poem written in 1986 was entitled as "Bathroom for Ladies". It is a poem of two men clearing a bathroom men cannot enter normally. In the poem, however, the men close down their mind and devote themselves into labor.

The poem even makes me scared 14 years after it was written. I concluded the poem by making one of the men "switch off all the light, and let the bathroom go dark"; by that conclusion, I even killed my poem itself...

The fact that I, who became a very experienced user of Japanese word processors, cannot write a poem after I wrote that poem of labor, indicates that word processors are machines to make "labor" exploit "words". I am now really scared of words and their power; we can never be careless of them.

1986年、 高木の最後の詩作品の題名は 「女湯」 という。 そこを掃除するふたりの男を描いた作品である。

女湯という、 男にとっての想像力をかきたてるはずの場所にあって、 ふたりのうちひとりは初めから完全に心を閉ざしてしまっている。 もうひとり (「僕」) もその場で圧倒的な 「声を発する」 父に心を曇らされ、 その心を閉ざす行為を 「事実それは、 この作業を行うにあたり不可欠な条件の一つに過ぎぬ」 と認める。 そして、 「最後の欠伸をした父にお休みを言うと、 目を閉じて、 スイッチをすべてオフした」。 そのあと、 「女湯にも夜のとばりがおりた。」 と作品を結んでいる。

今これを読み返し、 これを14年前に自分が書いたのかと思うと、 何だか恐ろしくなってくる。 これは労働の詩であり、 あのとき 「スイッチをすべてオフ」 し、 「夜のとばりがおりた」 結果、 高木は自分の詩に死刑を宣告してしまったようなのだ。 そして、 そのことが14年間の自分を規定してきた事実に、 改めて愕然とするのである。

言葉を粗末にしてはいけないと思う。 もちろん、 「二重言語国家日本」の石川氏のように 「言葉がすべてを規定する」 とばかり息巻くつもりはないけれど、 この詩を読んでいまの自分を考えるとき、 改めて言葉の力の大きさを感じざるを得ない。 最近も、 またまた何やら「手心」発言でやめさせられた閣僚がいるが、 これも言葉を粗末にしている証拠なのではないか。

この詩のことや、 そのあとワープロ使いになった高木が詩を書けなくなったことから考えると、 いうなればワープロという機械は日本語という 「言葉」 を 「労働」 に搾取させる仕組みであるのかも知れない。

実際には手書きであっても 「漢字を忘れたときどうするか」 という議論があって、 その場で辞書をひくという人からひらがなで書いておいて後で調べる人まで、 実にいろいろ様々である。 手書きでもそうだとするならば、 ワープロの思考パターンへの影響も人それぞれなのだろう。 技術的には、 「変換」 の精度向上などいろいろな努力が払われているから、 ワープロとモノの書き手の思考方法との関係も順次変わっていくはずだ。 そんなこんなで、 高木は全体的には石川氏の懸念に対しては楽観的にかまえてはいるのだけれど、 それでも洪水のようにばらまかれ、 搾取される言葉たちを、 ときに軽視しがちな自分には警告を発する必要があると感じている。

こういう体験をした今からなら、 まえよりもう少しまともな詩が書けそうな気がする。 しかし、 そのためにはワープロではなくて原稿用紙に向かう時間を作らなければならないのが難点なのだが…。

参考文献

  1. 石川: 「二重言語国家日本」, NHKブックス (1999)
  2. 「ワープロを捨てた作家たち」, 週刊朝日, 2000年2月18日号, 105, 7 (2000)

高木 亮 / TAKAGI, Ryo webmaster@takagi-ryo.ac
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