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巻頭言(28): 日本は変わる
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ページ執筆 2001. 11. 26
最終更新 2003. 5. 19

大丈夫、「日本は変わる」

ざんまい巻頭言 その28

英国に来てからすでに4ヶ月以上経ったが、 あまり 「海外」 という特別な空間にいる気がしない。 インターネットなどで日本の情報に過剰なまでに接することができる、 というのも理由の一端なのだろうが、 それ以上に英国の大学が長いこと過ごした日本のそれとあまり変わらない、 ということがある。 もちろん、 すべて英語で話が進むことを初めとして、 完全に同じではあろうはずもないが、 研究テーマは勝手知ったる鉄道分野だし、 スーパバイザ(のひとり)は数年来の顔見知り、 そして大学自体も以前訪れたことのある建物そのまま。 それに、 大学での仕事のやりかたも大筋では同じなのである。 となれば、 そう感じるのもやむを得ないのかも知れない。

だからかどうか、 いま僕がもっとも強い刺激を受けるのは、 この環境下でがんばっている多くの日本人たちだったりする。

数はそれほど多くない。 全体で100人を少し越えるくらいらしい。 しかし、 日本の大学から Research Fellow として派遣されてきた教員、 高校などから聴講生(?)として派遣されてきた教員、 研究員や大学院生として送り込まれてきた日本の企業社員、 日本の大学との交換留学でやってきた学部学生、 学費・渡航費を自前で支払ってやってきた私費留学の修士コース学生などがいる。 教授クラス、 あるいは講師などのパーマネントなアカデミックスタッフ academic staff や、 パーマネントでなくても僕のようにバーミンガム大学自身に採用された形の Research Fellow などとなればさすがに数えるほどしかいないが、 ともあれ全体としてその横顔は驚くほど多彩だ。 日本人の多様さに驚かされるというのも変な話なのだが、 実際日本ではこれだけの多様な人々に会ったためしがない。

ことに、 私費留学の人々の姿には何とも驚かざるを得ない。 何しろ、 渡航・滞在費用だけだって並大抵の額ではない上、 学費がまたとてつもなく高いらしいのだ。 たとえば、 11月25日の The Independent on Sunday は The A-Z of Business Schools なる付録冊子を折り込んでいる。 MBA取得コースの紹介なのだが、 その7ページにある Birmingham Business School の項目には、 学費が英国内の学生の場合で£10,250、 海外の学生の場合£11,250 とある。 日本円にすれば200万円である!

大学側の立場からすれば、 それは進学奨励政策の結果学生数が増える一方、 英国政府からの funding が減少して苦しい、 という事情の反映であるらしい。 ちなみに、 ここが England で最古のビジネススクールなのだそうで、 卒業生のなかには三井財閥の Hiroki Mitsui (漢字不明) も含まれているという。

だが、 もちろんこの金額はたやすく用意できるものではないとはいえ、 それを用意してここに来た人々は決して特別な階級の出身者ではない (確かにそういう人もいないことはないが)。 特別に裕福とか、 超エリートの子息とかいうわけでは、 必ずしもないのである。 もちろん金回りはいい方ということにはなるが、 それにしてもどちらかといえば「普通の」人々である。 そういう人々が、 これだけの費用、 そして人生のある割合の時間をかけて (場合によっては、 その時間を作るために職をなげうってまで)、 ここで学位取得のために学ぶのをみていると、 何だか複雑な気持ちになる。

日本の大学での勤務経験もちょっとだけある人間としては、 これだけのものを賭けて日本の大学に来る学生がいないことを残念に思う。 こういう人々こそ、 日本の大学を救うことができる人材なのではないか、 と思うと、 これらの人々の海外流出が痛いものに思える。

けれど、 その一方ではこの多様な若者たちが支える未来の 「日本」 は…… 現在のような 「日本」 とは、 文化のうえでも、 あるいはもしかすると「地理」的にでさえ、 同一ではあり得ないかも知れない。 いや、 むしろ 「日本は変わる」 と断言した方がいいだろう。 それでも、 どんな未来であれ、 彼らが支える未来であれば大丈夫、 という気がするのだ。

もちろん、 僕も含めて必ずしもみんながみんな 「大丈夫」 の一翼を担える人材というわけではないのも明らかだ。 英国人の大学教員の中には彼らが英国で過ごすことを指して 「いい休暇」 と揶揄する人もいるし、 彼らの批判が的はずれと言い切れない部分も確かにある。 しかし、 それでも全体として、 ここには未来の「日本」、 「地球村」 のなかの 「日本」 あるいは 「日本人」 として生きる未来を託するに足る希望がある。 僕には、 確かにそう感じられた。

そして、 そう、 あの9月11日のテロリズムはその希望への挑戦だったわけである……


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高木 亮 webmaster@takagi-ryo.ac
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