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橋梁ざんまい >> [橋梁訪問記] 横下橋
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ページ執筆 2000. 12. 31
最終更新 2002. 11. 4

横下橋 〜橋梁好きの「原風景」

橋梁訪問記・特別編
横下橋
(1) 横下橋。

横下橋などといっても、 おそらくどこにあるのか特定できる人はほとんどいないはずだ。 この街に暮らして30年をゆうに越す私でも、 その橋にそういうりっぱな名前があることを知ったのは最近のことだ。 というより、 その橋にそもそも名前があるということすら、 知らずに暮らしてきた。 千葉県鎌ヶ谷市内の小河川にかかる橋である。 どうみても橋長より幅員のほうが大きそうだ。 横下というのは地名改称前の「字」である。 しかし、 住所表示からこの地名が消えてしまった現在、 この地名を知っている人ももうほとんどいないのではないかと思う。

橋の名前と同様に、 それが跨ぐ水路の名前もあまり知られていない。 準用河川・二和川である。 二和(ふたわ)は船橋市内の地名。 江戸時代の馬牧が明治時代に開墾されたさい、 入植の順番に初富(はつとみ=鎌ヶ谷市)、 二和、三咲(みさき=船橋市)、 豊四季(とよしき=柏市)、 五香(ごこう=松戸市)、 六実(むつみ=松戸市)などの地名が生まれている。 この川の上流に二和地区があるわけだ。

二和川という名前は市の広報に載っており、 私も橋の名より以前から知ってはいた。 しかし、 二和川に与えられた「準用河川」という分類は、 今年(2000年)のおわりにかけ、 この橋からやや上流、 駅のすぐそばで行われた護岸改修工事現場の掲示で初めて知った。

この護岸改修工事の原因を作ったのは、 舗装などが進み、 雨の地面への浸透などが減少した結果頻発するようになった、 都市型災害である。 2000年夏のはじめに降った大雨で、 川沿いのブロックの土留めが崩れたのだ。 おかげで、 崩れた土留めのすぐそばで何年間か営業を続けてきた書店が、 それを機会に店を閉めてしまった。 大雨のたびに川があふれるものだから、 付近で新築される住宅は、 まるで輪中のように土地を嵩上げするのが通例になってしまったし、 それができない既存の住民の中には土のうを常備している人もいる。 事態は相当深刻である。

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横下橋、右岸から左岸方向をのぞむ
(2) 横下橋。右岸から左岸方向を望む。

私が子供だった1970年代、 この川はすでに激しく汚染されていた。 人口が急増したのにあたりには下水道が整備されていなかったから、 家庭排水は何の処理もされず、 二和川のような低湿地を流れる川に放流されたのである。 当時、 「二和川」 なんてりっぱそうな名前がこの 「きったない」 ドブ川についていると聞いたら、 何かの冗談だと思ったに違いない。 しかし、 駅周辺など一部を除けば、 当時低湿地ではまだ稲作が行われていた。

北総台地は、 海抜10メートル強の高台と、 それより10メートルほど標高の低い低湿地とが、 まだら模様に分布する変な地形をしている。 高台と低湿地との間は急斜面で、 たいがい雑木林になっている。 高台では野菜などの栽培が行われる一方、 低湿地は「谷津田」と呼ばれ、 水田として利用されていた。 上の写真で、 橋から左岸方向に道路を進んで突き当たったところがその急斜面。 橋からそこまでの距離は150m程度だろうか。 この写真と反対方向を向けば、 やはり100m程度で別な斜面に突き当たる。 つまり、 このあたりの低地はその程度の幅しかないということだ。

横下橋の左岸側、およびここから下流側(つまり写真右手)は、この写真を撮影したとき私が立っていたあたりに比べ開発が遅れていた。この写真のように多くの建物が立ち並んだのは最近5年ほどのこと。稲作は1980年代はじめまでに行われなくなっていたように思われるが、それでも1990年代にはいるまでは、もと田んぼであったことが明らかな湿地帯として放置されていた。それを、 1990年代初頭に「区画整理」と称して宅地化したのである。もとが低湿地ということもあり、分譲にはかなりの時間がかかったが、それでもここ1〜2年のうちには、ほとんどの整地された土地に何がしかの建物が建ったようである。

斜面には、かろうじて雑木林が残っているが、これもいずれ開発される運命にあるらしい。区画整理事業区域内には、写真にあるような直線的な道路網が形成された。それにあわせて斜面の下の道路も舗装・拡幅されたが、こちらは斜面と田んぼの境にもともとあった古くからの道路であり、まがりくねった線形に往時を偲ぶことができる。

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横下橋の銘板
(3) 横下橋の銘板。

1970年代には、「きったない」水が流れていたのは二和川に限定され、田んぼにはおたまじゃくしやらザリガニやらのいきものが住んでいた。 1972年ころまでならホタルだって見られた。雑木林にはいろいろないきもの……昆虫やら何やら……が住んでいた。

こうした空間が、子供たちの恰好の遊び場となったのはいうまでもない。田んぼ以外にも、雑木林ではセミやらカブトムシやらクワガタやらの虫をつかまえたり、林に囲まれた秘密の(?)畑を見つけたり。当時すでにカブトムシはデパートで売り買いされる高価な昆虫だったが、少なくとも私の身近でデパートで買っている子はいなかったのではないかと思う。

もちろん、いくつか危ない遊びもした記憶がある。なかでも、斜面のガケにあいた謎の穴(もちろん子供たちは洞窟とか呼ぶわけだが)に入り込む、というのがいちばんこわかった。地元PTAの「きけん」とかいう立看板は当然無視である。あのときは何事もなかったからよかったが、崖がちょっとでも崩れれば誰かが命を落としただろう。いまでもその場所はそのまま残っていたような気がするが、厳重な柵が設けられて立ち入りできないようになっている。

ザリガニとりや昆虫採集は私の趣味ではなかったけれど、当時飼っていた犬を雑木林によく連れていったのを覚えている。あの犬は確か捨て犬で、心に深刻なトラウマをかかえていた。けれど、散歩に連れていって、林の中で鎖を離してやると、嬉しそうに猛烈なスピードで走り回っていた。家に連れて帰るためには、再び捕まえて鎖につながなければならないのだが、これがいつも一苦労であった。

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二和川の現在
(4) 二和川の現況。

1970年代初めに、川のすぐ右岸でまとまった宅地開発が行われ、多分数10軒ほどの住宅ができた。住宅街を流れるこの手の水路は、コンクリートの垂直な壁で両岸を崩れないように固めてあるのがふつうだ。二和川のこの区間も、恐らくはこのときこうした護岸で固められることになったと考えられる。

二和川は川幅4〜5mだから、長い丸太などが渡せれば容易に橋を作ることができる。しかし、岸がコンクリートで固められていた方がこうした橋もかけやすいには違いない。当時は、いま横下橋がある位置でこの護岸は終わっており、ここから下流方向は護岸なしで田んぼのなかをまっすぐ流れていた。というわけで、新しい分譲地のはずれに当たる横下橋の位置が、そうした橋をかけておくにも便利な場所となり、誰かが適当に丸太や鉄板などを渡して橋をかけた。ものごころつくより以前のことはわからないが、おそらくこのあたりがこの橋の始まりなのであろう。

コンクリートの護岸は、水平に棒を突っ張って傾かないようにしてある。そこで、ちょっと勇気がある子なら、平均台よろしくその棒の上をわたることもできた。ほかにもいくつか街にあった排水専用の水路は、その幅がたいがい2mを下回っていたから、運動の苦手な私でも何とかわたることができた。しかし、二和川はほかの水路に比べ明らかに川幅が大きかったので、弱虫だった私は結局一度もわたることができなかった。危ない真似をしなくても、そばにもう少しわたりやすい橋があったのだから、当然という見方もできなくはないけれど。

最初の頃の橋は、丸太を3本くらい針金で結わえて置いたものだったように記憶している。丸太は当然腐るから、ときどき取り替えられたり、鉄板を敷いたりと、いろいろ誰かが手をかけてくれていたのだろう。橋がなくなっている時期もあったと記憶している。

橋の右岸側では、 1970年代の住宅開発の際にできた道路がほぼそのまま現在に至るまで使われている。一方、 1970年代当時の左岸側は田んぼであって、斜面の下に通じる砂利道から、あぜ道みたいなのが橋のたもとまでまっすぐ通じていた。 写真(2)に写る道は、まさにそのあぜ道の位置にある。

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横下貯留池
(5) 横下貯留池。

それから30年近くが経過した現在、往時を偲ばせるものが少なくなったのはやむを得なかろう。何事も変化を余儀なくされる。一面の田んぼは住宅地に変貌したし、雑木林も少なくなった。以前のように、その辺にいけばカブトムシがとれたなんてことはもうない。雑木林に散歩に連れていくと喜んだ犬も、あまり長生きせず、 1980年代に入るのを待たず死んでしまった。

往時を偲ぶといっているが、その私の記憶がそもそもあやふやなものだ。

例えば、橋の銘板に「1982年」とあるのに驚かされる。この当時、左岸側の取り付け道路はあぜ道に毛が生えたような未舗装道路だったはずだ。区画整理などが進行して舗装道路になった後も、橋の前後が不同沈下して段差ができ、自転車などの通行にも支障が出たりした。

橋の写真をよく見れば、区画整理区域の道路が幅広く整備されているのに、橋の部分だけ車道の幅員が狭い様子が見える。 1982年に橋が建設された時点では、区画整理事業がまだ本格的には動き出していなかったのだろう。その後も、橋に歩道を追加したり、段差の改修を行うなど、手を加えられ続け、育ってきた橋でもある。

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横下貯留池の設備と看板
(6) 貯留池のポンプ設備。

1990年代に入って区画整理事業が本格化し、あたり一面の田んぼは埋め立てられた。もとが低湿地であり、バブル崩壊の余波を受けて売却はなかなか進まなかったようであるが、ここ何年かでようやく空き地がほぼなくなった。

この事業区域内で目を引く設備として、深刻化した都市型水害の対策のため設けられた大きな「貯留池」がある。大雨等で二和川があふれたら、ここに水をためることで洪水を緩和する施設である。雨がやみ、川の水位が下がったら、ポンプで排水して再び空にするという。かつての情景を思い出し、コンクリートで固められた無機質な空間には痛々しさも感じるが、人々の暮しを守るための設備であればこれも致し方なかろう。緑やら環境やらといってみたところで、我々の生活はすでに多くのこうした無機質なもので支えられてしまっている。そのことを否定し、懐古趣味に敢えて浸る気もない。

以前、「雑木林を開発するな」という運動が起こったことがある。まちに遺された最後の貴重な森林を守れ、ということらしいが、何だか変な気がした。そう主張しているご当人たちが、その「貴重な森林」を切り開いて作った住宅地にげんに住んでいる、という事実は、彼らにはどのように理解されているのだろうか。

むろん、森林が貴重であることは言をまたない。しかし、それが切り開かれ、たくさんの人が住み、そのことによって幸せな暮しが営まれてきたという事実は、なぜかいつだって無視され続けてきた。

地域の歴史を調べる小学校の授業では、江戸時代に木につながれて死んだ牛をまつったとかいう「牛守大明神」のことは出てきても、住宅地の開発の歴史などは(少なくともポジティブには)語られることはなかった。新しい住宅地に住む新しい住民と、旧来の住民との軋轢の反映でもあったのだろう。しかし、そのような歴史のみが語られることによって、新住民の子供たちが故郷を喪失している、という事実は、想像されるよりは重いことなのではないだろうか。

まちづくりを考える、などといって発言している人々のなかには、この街のようなニュータウン的な新興住宅地に批判的な向きが多い。実際、問題が多いことは否定しがたいところである。それでも、私を含めて、ここにはもう少なからぬ時間をこの街とともに過ごした人々が存在する、という事実は、動かしがたいものだ。

私たちは、こういう街に長く住みながら、いまだにその街自身を自ら否定しにかかる価値観しか持ち合わせていない。そのことが、今後この街での暮しをますます問題の多いものにしてゆくことになるだろう。解消が困難なこの価値観のねじれを抱えたまま、それでも私たちは、きっとこの街に暮らし続ける。

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二和川上流の別な貯留池
(7) 約2km上流にある、別な貯留池。

1970年代はじめころ、よそいきの洋服は東京のデパートで買うのが当たり前だった。だから、電車を乗り継ぎ、西船橋から真新しい地下鉄に乗って、銀座や日本橋に出かけたものだ。病院だって近所には十分な設備のところがなかったし、親の仕事の関係で東京に行けば安く使える病院があったから、病気になったときもお茶の水に出かけていった。

そうして出かけた先々で、印象的な橋を数多く見かけてきた。日本橋、お茶の水橋、聖橋、あるいは隅田川・荒川・江戸川をわたる鉄道の橋梁群など。自宅の近所にはそれらに比肩すべきまともな橋がなかったから、何だかさびしい思いをしたものである。

もちろん、現在の横下橋だってそうした名橋たちとは比べるべくもない。しかし、長い時間を経て育てられてきて、いまここにこうして存在するこの橋には、確かにある種のいとおしさを感じる。昔あった丸木橋のような風情はもうないが、銘板によれば架橋からすでに20年近く、これからも歴史を重ねて老いていってほしいと願う。

横下橋から少し自転車をこいで、写真(2)に写った斜面のそばに出かけてみた。すると、その中腹に最近できたばかりとおぼしい住宅群があり、そのそばの見晴らしのよい場所に小さな児童遊園ができていた。そこからは、例の横下貯留池が一望できる。

その無機質ぶりに改めて感慨にふける。そばでは男の子がふたり、「ぼうけんにいこう」などといいながら何かいっしょうけんめい遊んでいる。

考えてみれば、遊び場は田んぼや川ばかりじゃなかった。街には、草野球ができる空き地や、きもだめしができるお化け屋敷みたいなのがたくさんあった。そういう空間と人々に囲まれて、私たちは育てられてきたのだ。

その意味では、今の子供たちは少しかわいそうかも知れない。お化けの出そうな廃屋みたいなのはずいぶん少なくなったし、空き地はほとんど駐車場となっていて遊び場としては危険すぎる。川には厳重なフェンスが張られ、安全にはなったのかも知れないが、つまらなくもなった。

それでも、多少は子供が遊べる公園などが増えた。私たちが子供だった時分にはそういうのが少なくて、隣の学校の学区にある公園まで出かけて地元の子たちと喧嘩したりもした。今は少子化が進んでいるから、こうした問題は(解消されないにしても)だいぶ軽減されたことだろう。それに、横下橋のすぐわきに児童センターとかいうのができていて、多くの子供たちが足しげく訪れる場所になっている。街も、橋も、そして人々も、こうして確かな時間を積み重ねている。

「ぼうけん」とその男の子たちがいうのを聞いて、何をしようというのだろうと思う。二和川を遡って、何があるか、どこまでいくか調べてみる、とかいうのなんかどうだろう。例えば、今いる横下地区から川を2kmほど上流に遡っていったところ、住宅街のただなかに、ひっそりと貯留池が設けられているのを、彼らは知っているだろうか。機能的には横下貯留池とまったく同じだが貯留量は少なそうだ。場所の確保のために、関係者がご苦労された様子が見えるようである。

彼らにその場所を紹介してやったら、面白いと思うだろうか。僕らの秘密基地とかいって、そこに何か自分だけの場所を作ろうとするかも知れないな、と思ったりしてみる。

ぼうけんってなにするの、などと彼らに聞いてみたかった。けれど、そういうのはお節介というものだ。私が彼らの親などであればともかく、そうではない私はそんな野暮はせずに彼らに任せておけばよい。子供たちは案外、なにをどうすればよいか自分で知っているものだ。ぼうけんのネタだって、いくらも彼らは見つけ出すことができるだろう。だから、何も聞かずに私はそこを立ち去った。

21世紀、あるいは新しい年。何が私たちを待ち受けているのだろう。


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高木 亮 webmaster@takagi-ryo.ac
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