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橋梁ざんまい >> [橋梁訪問記] 通い橋・堂橋
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ページ執筆 1999. 2. 14
最終更新 2003. 5. 17

京都・大原の「通い橋」と、奈良・南田原の「堂橋」

橋梁訪問記
  • 写真撮影: 1993年12月
上田篤氏の「橋と日本人」(岩波新書, 岩波書店, 1984)を購入したのがいつかは覚えてないが、これに載っている橋のうち半分くらいはすでに見に行ったと思う。ただ、この本にでてくる「橋」の中には、錦帯橋とか甲斐の猿橋とか日光の神橋のような有名どころだけでなく、何だかよくわからない橋とか、普通の概念では橋とは考えにくいもの(例: 国営武蔵丘陵森林公園内の「渓流広場」)まで入っている。そういうところに「橋を見に来ました」といって出かけると相当なマニアと見られてしまうこと請け合いである。

そんな橋のうち、「通い橋」と「堂橋」を見にゆきたくなったのは、確か1993年の12月、大阪で電気学会の研究会が開催される日の前日だったと思う。当時は学生だったからこういうことが気軽にできたのだと今になれば懐かしく思うが、宿泊費は浮かせたかったと見え、その日のさらに前日の深夜に東京駅を出る夜行バス「ドリーム京都号」に乗車した。だから、一連の写真を撮った日は、京都駅付近に朝早くに放り出されたわけである。

通い橋の写真あまり朝が早いから、ホテルに荷物を預けることもできないので、大原行きのバスがどこから出るかを掲示等で調べて、確か地下鉄で市北部の北大路バスターミナルまで行ったと記憶している。そこから山道をたどるバスで終点まで。朝早いからまだ三千院などあいてないだろうということで、ふつう観光客が行きそうな方向には眼もくれず、川沿いに歩いていったところ、本に載っているのと同じ橋が見つかった。

通い橋の橋面この橋は、「橋と日本人」では丸木橋と分類されている。丸木橋というと、特にテレビアニメ世代は山から切り出されたまま何も加工してない、まるい丸太ん棒を一本、こちらから向こう岸まで渡したものを想像されるだろう。そんなのでは安心して渡ることはできそうにない。この橋は、写真ではよくわからないけれど、丸太を鋸で挽いてふたつに割ったものを使っている。だから、不安定でこわいとかいうこともまったくない。

この日は朝が早かったから、橋面に霜が降りており、渡ってみたら足跡がついた。滑って落ちたら大変だな、と考えてみたりしたのを覚えている。この橋、個人の所有物だそうで、渡るのに許可がいるのではないかと思いながら出かけたのだが、結果的には誰にも出会わず、断りを入れることも(でき)なかった。よかったのかどうかは、定かではない。

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この撮影行の際に泊まった京都の宿へ続く小径普通だったら、三千院でも見て帰るところなのだろうが、心づもりでは奈良に行って「堂橋」の写真をとりたかったので、そのままバス停にとって返して北大路ターミナル行きのバスの人になってしまった。今回が大原の初訪問であり、それ以来大原に足を踏み入れていないから、結局三千院はまだ見たことがないことになる。

僕は普段はあまり貧乏旅行をするほうではないのだが、このときはけっこう出費を抑えたようで、京都のホテルもいささかあやしげなところを予約した。大時刻表に「駅から3分」とかいう宣伝があったのだが、今こうしてみてもなかなかミラクルゾーン的なホテルではある。確かに駅からは近いのだが、写真のように建物の下をくぐる怪しげな小径を通らないと宿にたどり着けなかったりする。当時は新京都駅ビルはまだ存在していない頃だったから、現在このホテルがどうなっているのか、そもそも営業を続けているのかも定かではない。ともあれ、このときはそこに荷物を置いて、お昼を食べたりした後、次の目的地・奈良に向かった。

当時の奈良駅。確か、今はなき京阪神ミニ周遊券を購入していったと思うので(従って高速バスも例のバス指定券とかいうやつを購入して乗った)、京都から奈良へも近鉄ではなくJRの列車を利用したはずである。このときの奈良駅を撮影した写真もこのように残っている。この奈良駅周辺の雰囲気は、1993年当時も今もあまりかわっていないように思う。

駅前には奈良交通のバス案内所があったので、そこで南田原方面にゆくバスの時刻を調べた。このあたりは大原と違って普通の観光客が行くところではないから、バスの本数も少ないしインフォメーションも十分ではない。それでも何とか路線番号と時刻を知ることができた。

「せいぜいご利用下さい」夜行バスあけの一日はどうしても疲れる。バスが来るまでバス停のベンチに座ってのんびり待つ。することがないので、そばの手すりにバス会社の案内が貼り出してあるのを写真に撮った。「せいぜいご利用下さい」と書いてあるのは関東人から見るとおもしろいと感じる。もっとも、この「せいぜい」という言葉、最近は関西方面に出かけてもあまり見かけなくなった。さびしいことである。

近所の団地行きとおぼしいバスが何本か行った後、やっと到着したお目当てのバスは、普通のより車体がやや小さめのものである。運転本数もかなり少な目だし、相当な閑散路線なのかも知れないと思った。ただ、乗ってみると意外に混雑していた記憶もある。バスは市内を東方面に走った後、奈良公園あたりから南に向かい、あとは方角が分からなくなった。1〜2度、小さな峠越えをしたような記憶もある。

観光地ではないから詳細な行き方ガイドもない。そもそもどのバス停で降りればよいのかすらわからない。道路地図ならそんなことはなかったような気もするが、持参した国土地理院の地形図にはバス停が書いてないから、バス停名だけを頼りに適当そうなところでおろしてもらい、地形図を頼りに細い道を歩いた。

南田原の堂橋 (1)見つけた「堂橋」は写真のような小さな橋である。

南田原の「堂橋」 (2)「橋と日本人」によれば、この橋は日本文化の重層性を示す存在なのだというが、それにしてはあまりにちっぽけな橋である。橋の名前は、この橋がお堂に続く橋であることから来ているらしい。もともと日本の橋は「カケハシ」であり、世界と世界をつなぐものというよりは「分断するもの」という色彩が強い、従って日本人の意識では「カリバシ」をもって足りるとする伝統がある、と著者の上田篤氏はいうのだが、そのような伝統とは別に、「寺・廓・校」に続く道であればカリバシでは足らずきちんとした永久橋をかけるという別な伝統もあるのだそうで、そのひとつの例がこの堂橋だという。お堂は「寺・廓・校」の寺にあたるというわけだ。

堂橋周辺の地域橋自体は一枚の大きな岩を渡してあるだけの構造だが、両脇に丸太が2本ずつさらに渡してある。同書によれば、元々は岩が2枚の広い橋だったそうで、このうち1枚をはがして近所の墓地の囲い石に転用したので、幅員の減少を補うべく丸太を追加したということらしい。写真にはこの丸太の下に水道管も写っているが、これは同書によれば「最近」追加されたものなのだそうだ。同書が刊行されてからこの時点でもすでに10年くらい経過しているから、見た目には古ぼけた管に見えた。しかし、著者の上田氏には、このような改変が多少さびしく思われたようである。

この橋は川沿いの小径からどこか茂みの中に続いている。その先には、同書によればお堂があるのだそうだが、少し入ってみたがそれらしい雰囲気が感じられなかった。とにかくひたすら静かな地域であるから、いったい上田氏がどのような経緯でこの橋を「発見」したのか、不思議な気さえする。

堂橋のあるあたりの写真あの日は、とりあえず橋を見た満足感とともに、いささかだまされたような気持ちも持ちながら、あの場所から再びバスで去った(奈良公園ですこし遊んでから京都の宿に帰ったような記憶がある)。しかし、引越し荷物の山の中から出てきたこれらの写真を見ていて、もう一度あの場所を訪れてみたい気がしてきた。

今度の訪問では、日本文化の重層性をきちんと見据えることができるかどうか。楽しみだが、交通の便が悪い地域でもあり、いつ再訪を果たせるものだろう…。


掲載した写真(スキャナで取り込んだオリジナル画像)


更新履歴

  • 1999. 9. 19 ページデザイン変更
  • 1999. 2. 23 ページ構成変更に伴うリンクの修正
  • 1999. 2. 20 「橋と日本人」が引越し荷物から出てきたので、それを基にした修正
  • 1999. 2. 14 初稿

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