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ページ執筆 1999. 4. 25
最終更新 2003. 2. 10

江ヶ崎跨線道路橋

橋梁訪問記

江ヶ崎跨線橋遠景(1)横須賀線の下り電車が新川崎駅を出発すると、やがて進行方向右手の車窓に広々した空き地が広がる。これが、もとの新鶴見操車場の跡地である。1984年、すなわち国鉄分割・民営化前に、国鉄が「ヤード方式」の貨物輸送を全廃してしまったため、広大な土地が不要とされ、ここに残ることになった。

ここには、またぐ線路の多くを失った「跨線橋」がいくつかかかっている。新川崎駅の真上にも一本かかっているが、この陸橋(鹿島田跨線橋)はこの意味ではまだよいほうである。それは、新川崎駅のすぐわきに、操車場改め「新鶴見信号場」が残っているからである。操車場はなくなったが、この地区に貨物列車を主に扱う鉄道が何路線も存在し、新鶴見がこの鉄道網の要衝である状況にはあまり変化がない。1929(昭和4)年に品川〜新鶴見〜鶴見間の貨物別線が操車場とともに開業、その後順序はよくわからないが、南側には南武線尻手駅からの単線の線路と戦後開業の東海道貨物別線につながる線路、北側は市街地をトンネルで抜ける武蔵野線が付け加わった。南側は鶴見駅付近まで堂々たる複々線。北へ向かう武蔵野線は今でも新鶴見が起点である。そのような位置にあるから、新川崎駅のわきにはJR貨物の車両基地が置かれ、たくさんの機関車が休息しているのを眺めることができる。

江ヶ崎跨線橋遠景(2)しかし、15年近く更地のまま放置された跡地の茫漠さは、かつての情景を知る人にはさびしく映ることだろう。横須賀線の下り電車は、新川崎駅からそのさびしさのただ中に向かって地平の線路を加速し、まずは鹿島田跨線橋の南に位置する通称「小倉陸橋」をくぐり抜ける。小倉陸橋のあたりまで来れば、操車場跡はほとんど原っぱだらけの状況になる。それでも、小倉陸橋は横須賀線の走る線路のほかに複線の貨物線も乗り越すし、橋の上の交通量も多く、しかも(橋自体に興味を持つ人間には面白味がないものの)新しい橋で歩道と車道もしっかり分けられている。打ち捨てられた橋という印象は少ない。

橋全景、ポニーワーレントラスのある方から小倉陸橋をくぐった電車は、このあと高架橋上を駆け上がる。尻手からの貨物線を乗り越すためである。ちょうど列車がこの高架橋の最高点付近にさしかかったとき、車窓には表題の江ヶ崎跨線道路橋が見えるのである。

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跨線橋と成田エクスプレス操車場があった頃なら、まさにこの橋は……車窓から見る限りにおいては……操車場のシンボルと称するに相応しい姿と位置を占めていたと思う。その理由は、ひとつには横須賀線の電車が高架橋を駆け上がり、その頂点に達してヤード全体を見渡せる位置に達したときに見える橋であるということ。そして、この橋が元々複線鉄道用の幅が広いトラスを転用したもので、見栄えがすることだろう。

高木の橋梁趣味の最近のネタ本「鉄(かね)の橋百選」(注1)の記述によると、1929年の新鶴見操車場開業により分断される東側と西側を結ぶため、道路橋が4本架けられた。4橋ともどこかで不要になった鉄道用トラスが流用されたらしい。先ほど名前が出た鹿島田跨線道路橋は練鉄製100ft(フィート)単線ポニーワーレントラス6連、小倉跨線道路橋は100ft単線ポニーボーストリングワーレントラス7連とある。これとあわせて複線トラスの江ヶ崎跨線橋がある状況は、どんな風景だったのだろうか。もっとも、小倉陸橋も単線トラスではあまり見栄えがよくはなかったかも知れない。

(注1)成瀬編: 「鉄(かね)の橋百選 −近代日本のランドマーク」, 東京堂出版 (1994).
橋脚そして、江ヶ崎跨線橋は200ft複線下路プラットトラス2連と練鉄製100ftポニーワーレントラス1連とある。このうち、大きな200ftのプラットトラスは、日本鉄道海岸線(今の常磐線)田端〜土浦間開業の際、隅田川橋梁で使用していたものを転用。ポニーワーレントラスのほうは、東北本線荒川橋梁(2代目)からの転用だそうだ。

「鉄の橋百選」の記述は、複線トラスであるが形態的には数多く見られるタイプと似通っているポニーワーレントラスのことにはあまり触れずに、プラットトラスの方が主に紹介されている。1896(明治29)年、イギリスのハンディサイド社の製作である。同社製のトラスは、この年に北越鉄道の信濃川に200ft単線用6連、日本鉄道の阿武隈川(常磐線)に同8連、そして隅田川に複線用2連がそれぞれ使用された。このうち、阿武隈川のトラスが今でも大糸線に転用されて残っているらしい(穂高川橋梁、穂高〜有明間)。

橋門構。西側から時期的には、これまで国内で標準的に使われてきた「ポーナル形」(江ヶ崎跨線橋のポニートラスもそのタイプだと思われる)がやや古いものになりつつあり、アメリカ設計のトラスも本格的に入ってきていない、いわば端境期にあたっている。発注したのが私鉄2社で、発注者側が模索したものか、ハンディサイド社側が売り込みを図ったのかは定かではないが、ともかくこれまでにない独特の設計のものが入ってくることになった、のだそうだ。

東側からプラットトラスの橋門構部分のみ写す「鉄の橋百選」は土木学会の「歴史的鋼橋調査小委員会」の成果物で、橋ごとに解説文を書いている人が違うのだが、収録対象となったハンディサイド社のトラスの残存事例2橋については、いずれも西野保行氏によって書かれている。西野さんのお名前は、鉄道趣味人ならご存じの方が多いと思う。鉄道ピクトリアルなどに寄稿しておられるほか、「想い出の東海道線」などの写真集も出しておられる。京都大学ご出身で、高木は1991年から始まった常磐新線の饋(き)電システム(注2)に関する検討会で初めてお世話になった(当時、常磐新線の運営主体となる首都圏新都市鉄道(株)常務取締役であった)。この常磐新線をはじめ、東京都営地下鉄三田線の高島平など都市鉄道の新線プロジェクトに関しご経験とご造詣が深い方である。しかしそれだけでなく鉄道趣味人としても知られており、委員会の懇親会席上などでお会いすると電化で放棄された山陰線の旧線で古レールを発見したとかいう話をうれしそうになさったりもする。

(注2)電気学会などの用語集によれば、漢字は使用せず「き電」と表記するのが正式である(と、こう書いておかないと鉄道総研の知り合いに怒られるからな:-) 実際私はその用語集の内容を編集する委員会に参加していたりもしたから当然という話もあるが)。しかし、個人的意見としては「き電」と書くのは変だと思うので、漢字で通させていただく。漢字が難しすぎるというなら、用語自体を変更すべきだ。
傷みの目立つ対傾構西野さんは、同じハンディサイド社製の穂高川橋梁について「板と形材とのまさに芸術的組み合わせで、ガセットプレートのような小さな部材をなるべく使わないように工夫したり、斜材の調整にコッタピンを使うなど、見ていて飽きない楽しい橋である」と書いておられる。また江ヶ崎跨線橋については「基本的な設計手法は、単線用のものと変わりないが、やはり大きくて見栄えがし、とくに橋門構と対傾構が美しい」としている。いずれの解説文も短い文章だが、私がこうしていくら長い文章を書いても西野さんのに及ぶものは書けそうにない。きっとまだ教養も、橋に対する愛情も、足りないのだろう。

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しかし、現在の江ヶ崎跨線橋は、どこか「打ち捨てられた橋」という風情である。

例えば対傾構など随所に見られる傷みや錆は、この橋の余命が少ないことを物語っている。実際、他の橋は掛け替えられたのに、この橋だけが新鶴見操車場開業以来この場所で頑張っているのだから、当然である。

尻手連絡線を走る貨物列車跨ぐ線路も少ない。これは、尻手連絡線を立体交差するために横須賀線用線路が操車場敷地の東の縁を高架で抜けているからである。この橋は「鉄の橋百選」のデータによれば橋長178.7m、西側から順に下路プラットトラス(鉄道時代複線)2×62.7m、ピン結合ポニーワーレントラス(鉄道時代複線)1×30.18m、下路プレートガーダー1×15.68mとあるが、このうち線路を乗り越しているのは東側のプレートガーダー一つだけなのである。隣接する他の跨線橋は少なくとも4線を跨ぐが、江ヶ崎跨線橋は複線のみだ。

尻手連絡線貨物列車の上を抜けるE217系電車横須賀線電車が走る線路は、小倉陸橋のあたりでは地平を走るが、江ヶ崎跨線橋のところまで来ると高架橋上、そこから再び地平に降りて南隣の矢向第一陸橋をくぐる。その後再び高架橋に上って、貨物線を乗り越してから鶴見駅のもっとも「山側」にあたる鶴見線コンコースの真下あたりを通過する。もし、新川崎駅が新鶴見の西側に作られていたら、このような複雑な乗り越しは必要なかったようにも思われる。明らかに、操車場を温存するための選択であったはずだ。新川崎駅の開業が1981年、新鶴見操車場がなくなってしまったのがそれから5年も経たないうちだったわけだから、そういうことが初めからわかっていたならこのような線路の設計はしなかったろう、とも思う。そうなれば、江ヶ崎跨線橋の下に4本の線路が通ることになったかも知れない。救いだと思うのは、今でも少なからぬ本数の貨物列車が、これらの線路を行き交う姿を眺められることだろうか。写真にあるように、尻手駅への連絡線を走ってきた貨物列車と、E217系電車の遭遇も珍しいことではない。この線路、案外使われているようだ。

操車場開業当時、他の跨線橋が単線桁だったのに江ヶ崎跨線橋だけ複線桁を持ってきたことからすると、当時はここがいちばん通行量の多いあたりと見込まれたのかも知れない。しかし、いまや他の跨線橋はすべて架け替えられ、橋詰にある交差点には信号が設置されている。それなのに、この江ヶ崎跨線橋だけは橋詰に信号機がない。江ヶ崎跨線橋の西側はT字路になっているが、どの方向から来ても一時停止しなければならず、交通の障害になっている。東側はもっと状況が悪く、横須賀線の高架橋と貨物線との間の狭いスペースに細い道が作られ、それが取付道路となっている。その取付道路はさらに横須賀線の高架をくぐらなければならない。特に、北側では尻手駅連絡線の踏切を経ることになる。

橋から眺めた東電・技術開発センタ橋の幅員も、開業当初は複線桁の転用で広々していたかも知れないが、自動車交通主体の現在にあってはいかにも狭いという印象を免れない。職場の先輩も「あの橋はこわい」という。この一連の写真を撮影したときは幸いこわい思いをせずに済んだが、何台か通り過ぎた車両の運転手はじゃまな奴と思ったに違いない。

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新鶴見小学校(中央)新鶴見の跡地は広大だが、再開発はあまり進んでいるように見えない。同じく大規模な跡地が発生した東北線の大宮地区では、新都心を作るとかで大騒ぎしているが、それに比べるとこちらの静けさは確かにさびしい。もっとも、周囲に何もないような場所だから仕方がないのかも知れない。この写真は、周囲の低層建築物の広がりの中、私の現在の職場・東京電力(株)技術開発センターのビルが高さの点でぬきんでている様子を、ポニートラスの上から写してみたものだ。低層建築物は住宅が主だが、いくつか町工場的なものも散在している。こういう状況では、新都心などと浮かれる要素が存在しにくいのも、しかたないのかも知れない。もう少しJRがここを走る横須賀線のサービス向上に積極的であれば、また話は違ってくるのだろうが、横須賀線のサービスレベルは残念ながら「お座なり」と評価するのが公平なレベルだ。

江ヶ崎「まちのはらっぱ」で遊ぼうそんな新鶴見操車場跡地を利用してまっさきに建設されたのは、どうやら小学校らしい。その名も新鶴見小学校。東電の技術開発センターは自社が持つ「京南変電所」跡地を利用して平成6年開所したものだったが、この小学校はこのさらに後に完成した、と職場の先輩から聞いた。新しい小学校らしい、モダンな意匠を盛り込んだ建物である。しかし、小学校ができた以外、最近まで空き地はほとんど再利用されぬまま放置されてきたようだ。

江ヶ崎八幡神社それを地元の人が見かねたのかどうか、跡地の入り口に「まちのはらっぱであそぼう」なる看板が立てられていた。積極的にここで子どもたちに遊んでもらおうということだろうが、どのくらいの数の子どもたちがここで実際に遊んでくれたのかは、よくわからない。広々しているから野球などするには適当そうだ(少なくとも神社の境内では狭くて不可能である)が、あまりに広い空間だから、夜になるとこわいかもしれないと思う。親の立場からすれば、最近(特に女の子が)被害に遭う事件が多いことなど考えれば、むしろこんな空き地にはあまり深入りしてくれるなといいたくなるだろう。じっさい、江ヶ崎跨線橋ではなくて小倉陸橋のそばだったが、夕闇迫る跡地で子どもの名前を呼ぶお母さんの姿を見たことがある。それはちょっと懐かしくて感動的でさえある光景だったのだが、ご本人の気持ちとしてはやはり心配だったのだろう。

跨線橋側面全景そして、最近になっていくつかの建物の建設工事が着手された。せっかくの「まちのはらっぱ」の看板のすぐわきは、今では「新鶴見ホーム」(仮称)なるものの工事現場だ。「まちのはらっぱであそぼう」のメッセージの対象である子どもたちは、このような状況をどのように見ているかな、と、少し気になる。

あと、10年もすれば、少なくとも現在のように茫漠たる空き地が広がる情景は、過去のものになると思われる。江ヶ崎跨線橋も、恐らくは撤去される運命にあるのだろう。だが、現位置に移ってからもこれだけの時間を過ごしてきた橋なのだし、何とか保存する手だてはないかと思う。例えば、跡地の一部を公園として整備し、その中心にトラスを歩道橋として据えるのである。こうすれば、「まちのはらっぱ」の心意気に実質性と永続性を与えてやることもできるし、あのトラスもそのシンボルとして生き続けることができるのだ。


掲載した写真(スキャナで取り込んだオリジナル画像)

江ヶ崎跨線道路橋: データ

  1. 名称: 江ヶ崎跨線道路橋(えがさきこせんどうろきょう)
  2. 竣工年: 1929 (昭和4)
  3. 跨越対象: JR東日本 東海道線(貨物線)新鶴見信号場構内
  4. 橋長: 178.7m
  5. 幅員: 5.5m
  6. 径間数・支間長: (1) 2 x 62.7m, (2) 1 x 30.18m, (3) 1 x 15.68m
  7. 形式: (1) 下路プラットトラス(鉄道時代複線), (2)ピン接合ポニーワーレントラス(鉄道時代複線), (3)下路プレートガーダー

出典

  • 成瀬編: 「鉄(かね)の橋百選 −近代日本のランドマーク」, 東京堂出版 (1994)
    ISBN 4-490-20250-4

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