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デジカメ便り(9): 運河
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ページ執筆 2003. 2. 27
最終更新 2003. 5. 20

「休日は運河の船(キャナルボート)に乗って」

バーミンガム・デジカメ便り 第9回

英国初「ユーロの使える街」にて

ポントカサルテ水路橋・サイドビュー
(Photo-1): Pontcysyllte 水路橋。付近の畑から見上げたもの。 (2001. 12. 26 撮影)
ポントカサルテ水路橋・橋詰から
(Photo-2): Pontcysyllte 水路橋。 橋詰から写したもの。 手すりつきの通路があり、 一般の人も渡ることはできる。 (2001. 12. 26 撮影)

ウェールズ北部、 ディー川(River Dee)の刻む谷沿いにある街、 ランゴレン(Llangollen)。 このちいさな街の名前が今年特に注目されたのは、 毎年7月にここで開催される国際吟遊詩人音楽祭 (International Musical Eisteddfod)にあわせ、 街の商店の多くが通貨ユーロでの買い物を一時的に受け入れたからである。 ちなみに、 議論が続いている段階だから断言はできないが、 いまのところ英国世論は自国通貨ポンドを捨てる意志を固めたようにはまったくみえない。

ともあれ、これを機会に、音楽祭最終日の前日、 7月13日にこの街に出かけることにした。 別にユーロをお店で使って保守派の英国人をいやがらせるつもりではない。 音楽祭はいいきっかけだが、 ほんとうのお目当ては canal boat(運河の船)に乗ることである。

Llangollen から東方向にのびる運河は、 いくつかの水路橋 (aqueduct) で有名なのだ。 特に、Pontcysyllte Aqueduct(ポントカサルテ水路橋)は長さ307m。 それぞれのスパンが13.7mの鋳鉄アーチ19連でディー川の刻む渓谷をまたいで運河をわたす。 最大高さは38.7mに達するという。 橋上の水路溝は幅3.61mで、 キャナル・ボートの幅ぎりぎりといった感じだ。 1805年の完成で、 著名な運河技術者 Thomas Telford(トーマス・テルフォード)の 「最初の偉業」とされている。

英国には3200kmもの運河が現存するが、 この橋も含めほとんどが幅7フィート(約2.1m)の狭いキャナル・ボートを通すようにできている。 この橋をボートが渡る際、 ボートと水路溝の壁の間は30cmもない。 水路溝はほぼ水で満たされているから、 ボートからは眼下の景色を容易に楽しむことができる。 夏の間は、スリルを味わうべく多くの観光客が集まる場所だ。

キャナルボート Thomas Telford 号
(Photo-3): キャナル・ボートの一例。 Pontcysyllte 水路橋のツアーに使われている、 Thomas Telford 号。 (2002. 7. 13 撮影)
ポントカサルテ水路橋をわたる Thomas Telford 号
(Photo-4): Thomas Telford 号が Pontcysyllte 水路橋にさしかかったところ。 鋳鉄製の水路溝の壁の向こう側は、深い谷である。 (2002. 7. 13 撮影)

バーミンガムは「運河の街」?

産業革命後の19世紀に急成長した街だからか、 バーミンガムは英国人には評判がよくないようだ。 バーミンガムの口語的な呼び名である Brummagem には 「これ見よがしの」「派手だが価値のない」「まがいの」 などという軽蔑的な語義さえある。 周辺でかつてそういうものが作られていたことに由来する、というのだが……。 新 Bull Ring Centre の建設 (連載第4回参照)など、 現在市内で進められている大規模な再開発は、 そういう悪評を一掃したい市民の思いの結晶でもあろう。

そんなわけであまりめぼしい観光スポットもないバーミンガムの売り文句のひとつが 「運河の街」 だ。 市内の運河の総延長がヴェニスよりも長いという (町村合併で大きくなる前の 「昔のバーミンガム」 に範囲を限定すればそうでもないらしいが)。

内陸部に位置し、 物資の効率的な輸送手段に依存しなければならないバーミンガムにとって、 鉄道の発達前には運河が生命線だった。 その後も、 古いものを大切にする国民性故か、 1960年代に至っても商業的物資輸送に運河が実際に用いられていた、 というから驚く。 しかし、 1963年の冬の大寒波による氷結で運河が数ヶ月の閉鎖を余儀なくされ、 小規模な会社が事業停止に追い込まれたことがきっかけになり、 これ以降運河は休日にボート遊びをする人々の専用のような状態になっていく。

バーミンガムの city centre には、 その後も運河沿いに倉庫や工場などが立地していたが、 1990年代に入りこうした建物を取り壊し、 運河沿いを商店や住居として再開発する動きが活発になってきた。 再開発によってできた空間は、 市民の憩いの場所となると同時に、 city centre の新しい観光名所として人気を集めつつある。

馬が曳くタイプのキャナル・ボート
(Photo-5): 馬に曳かれるタイプのキャナル・ボート。 運河開通当初はボートには動力がついておらず、 馬で曳船するのがふつうだった。 このため、 運河のわきには必ず towpath と呼ばれる通路が設けられている。 (2002. 7. 13 撮影)
ストラトフォード・アポン・エイヴォンの閘門
(Photo-6): こちらは、 バーミンガム近郊にあるシェークスピアゆかりの観光地 Stratford-upon-Avon (ストラトフォード・アポン・エイヴォン) にある閘門。 エイヴォン川と運河の船溜まりの間の水位差を克服するために設けられている。 完全手動で、操船者が自分ですべての操作を行う。 (2002. 5. 27 撮影)

そしてバブルは繰り返す

バーミンガムに最初の運河が乗り入れてきたのは1769年。 周辺の工場に石炭を供給するためという。 その後、 Canal Mania(運河狂)の時代がやってきた。 19世紀の「鉄道狂」の時代と同じように、 運河がつぎつぎに建設された、 典型的なバブルの時代である。 だが、 鉄道という新技術が牽引した鉄道狂の時代と比べ、 運河狂の時代が面白味に欠けることも事実である。 あの水路橋だって 「ローマ人と肩を並べるところまで来た」 という以上のものではないともいえる。

だが、 切り通し、 トンネル、 盛り土あるいは橋をつらね、 英国の至るところを結ぶ運河、 そしてそこをゆきかう狭幅のキャナル・ボートを眺めていると、 鉄道との類似性を感じなくもない。 この国では、 鉄道の誕生は革命的 (revolutionary) というより進化的 (evolutionary) 過程として起こったのかも知れない。

建設当初、 鉄道会社が運河との連携を重視していたのは当然だろう。 やがて鉄道が支配的になってゆくにつれ、 運河との連携は重視されなくなる。 運河から実用的な意味が失われていったのも、 当然のなりゆきだろう。 余暇目的だけのものが国じゅうにこれだけ残されたのは、 奇跡的といえるが。

だが、 100年後の現在になって運河が新設されようとしている、 としたら?

廃止されて久しい運河を、 保存目的で再び通水するといったプロジェクトなら、 まあわからなくもない。 だが、 全くの新設だという。 しかもその理由が、 「運河沿いの家」は人気があり、 ほかの場所より高値で取引されているから、 ということらしいのだ。

折しも英国では住宅価格の高騰が続いている。 バブルの歴史は繰り返される、 ということなのだろうか。

(第9回おわり)
バーミンガム、ブリンドリープレイス付近の運河
(Photo-7): Brindleyplace(ブリンドリープレイス)。 バーミンガム city centre の運河の再開発によって1990年代なかごろに誕生した。 バーミンガムの新しい観光名所ともなりつつある。 (2001. 7. 21 撮影)

参考文献

  1. Brown, D. J., 加藤・綿引訳, 「世界の橋」, 丸善 (2001)
  2. ブリティッシュ・ウォーターウェイズ ホームページ
  3. Shill, R., "Birmingham's Canals", Sutton Publishing Ltd. (1999)
  4. "Birmingham adds tourism to its 1,001 trades", The Guardian, January 4 2002, p. 9
  5. Chancellor, E., "Devil Take the Hindmost -- A History of Financial Speculation", Macmillan (1999) (邦訳: チャンセラー, 山岡(訳), 「バブルの歴史 --チューリップ恐慌からインターネット投機へ」, 日経BP社 (2000))

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高木 亮 webmaster@takagi-ryo.ac
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