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橋梁ざんまい >> [橋梁訪問記] 桃介橋
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ページ執筆 1999. 9. 15
最終更新 2003. 3. 16

南木曽の桃介橋、方広寺の羅漢橋、木曽の桟

橋梁訪問記
  • 写真撮影: 特記以外 1999. 6. 12


▲ 方広寺の羅漢橋。
東京地区から塩尻に自動車で行くなら普通は中央自動車道経由だと思うが、 このときは何と東名高速に乗って三ヶ日インターチェンジで降りたのである。 目的は、 塩尻までの道中、 浜松の方広寺にある石橋と、 南木曽にある桃介橋、 そして木曽の梯に立ち寄ること。

ところが、 自動車交通の悪いところで、 いくつかの場所でトラブルに巻き込まれてしまった。 まず、 若干朝寝坊した(これがすべての原因だったかも)。 そして、 保土ヶ谷バイパスから東名高速道路に入る横浜町田インターで、 インター入口のわずか1.5kmを通過するのに1時間かかってしまった。 しかたないので、 大好きな足柄サービスエリアで休憩するのをやめて時間を稼いだが、 浜名湖の景色が気分良かったために浜名湖サービスエリアで昼食をゆっくり食べて帳消し。 そして極めつけは、 方広寺の手前で道路が通行止めで、 山道を引き返す羽目になったことだった。

今振り返るとドライブの計画自体が無茶だったような気がするが、 ともかく時間が苦しくなったため方広寺は石橋の写真だけをカメラに収め、 参拝はまったくしないで大慌てで南木曽に向けて車を走らせた。

そんなわけでドライブは大変な強行軍になってしまい、 桃介橋のある南木曽についたときはもう夕方。 主な3つの目的地のうちまともに時間が取れたのは桃介橋だけであった。 ただ、 国道のコンクリート橋の下にかろうじて残っている 「木曽の梯」 も、 夕暮れ前に間にあったので写真をとるだけはとることができた。

▲ 木曽の梯。
国道の橋の下にわずかながら残っている。 国道からは見えないため対岸に渡って眺める。
▲ 木曽の梯の対岸に渡る橋。
下路2ヒンジ鋼アーチ橋。 狭い橋で、 橋上では車の行き違いができない。 橋のこちら側に車が4台くらい止まれるスペースがある。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆

以前、 JR東日本・只見線の只見川橋梁群 (第1から第8まである) の写真を撮ろうと思ってドライブに出かけたことがあったが、 8つの橋梁のうち3つしか撮れなかった。 特に、 技術的に貴重な第1・第3橋梁を撮れなかったのは痛かった。 すべて国道から見えるはずだったのだが、 撮影ポイントを行きすぎてしまったらしいのだ。

今回撮影した 「木曽の梯」 (現在の状況において、 これを橋と呼べるのかは大いに疑問だが) は、 主要な観光スポットとして認識されており国道上にも標識が出ていたが、 只見線第 x 只見川橋梁なんてのは確かに標識でココと指し示すほどの存在ではなさそうだ。 だが、 南木曽の桃介橋くらいはそれがあってもよかったんじゃないかと思う。 国道19号はこのあたりでは中津川の左岸を走っている。 桃介橋は1993年に復元工事が行われ、 公園なども一体として整備されたのだが、 それらの施設はすべて右岸側にある。 桃介橋自体は 国道を名古屋方面から走ってくると、 どこかで左折しないと桃介橋を見つけたときは後の祭りということにもなりかねない。 地図等でよく確認しないと悲しいことになる。

只見線での 「戦績」 からもその辺のことが心配されたが、 今回は首尾よく曲がるべき交差点を間違えずに公園にたどり着くことができた。 公園にはかなり立派な駐車場もあり、 桃介橋を含めた歴史的景観を十分に楽しむことができるようになっている。

▲ 只見線第8只見川橋梁。 ▲ 只見線第5只見川橋梁。
★ 第7只見川橋梁 もあります。 これらの写真のみ、 1997. 8. 9撮影。

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参考文献や現地で撮ってきた写真によれば、 桃介橋は1921(大正10)年から翌年9月にかけて建設された。 ここからさらに下流の読書発電所 (よみかき、と読むらしい) の建設工事 (1923年12月まで) の際、 国道と同じく左岸にある駅から建設現場までの資材運搬路として利用することと、 地元の利便をはかることを目的として建設されたそうだ。 橋長247m (スパン23.66 + 104.4 + 104.4 + 14.54)、 幅員2.7m(通路幅) の4径間木製トラス補剛吊橋である。 桃介橋を紹介する現地の立て看板によれば、 これは木製の補剛トラスを持った吊橋としては日本有数の長大橋であり、 この種の吊橋としては当時我が国の土木技術の粋を集めた4径間吊橋であるとされる。 「我が国土木技術の粋」 がほんとうに集まったのかどうかは怪しいような気がするが、 日本有数の長大木造吊橋であることは恐らく間違いないところだろう。

橋名の由来は福沢桃介。 福沢諭吉の婿養子で、 米国留学から帰国後いろいろな事業を興した人だそうだ。 現地の立看板によると、 当時大同電力 (現在の関西電力) 社長だった彼は 「一河川一会社主義」 なるものを主張、 木曽川水系の水力開発に情熱を注いだ。 読書発電所は当時木曽川に相次ぎ建設された発電施設のひとつであり、 「関西を中心とする各地の電力供給に重要な役割を果たした」 のだそうだ。

▲ 桃介橋と国道19号。
左岸側径間の下をくぐる。 復元前の桃介橋は非常に老朽化していたため、 橋からの木材落下を防ぐためと思しい鉄骨の構造物が残置してあるのが見られる。
▲ 桃介橋全景。
4径間木製トラス補剛吊橋。 247mの長大橋であり、 木曽川の川幅が広くなった場所では見栄えがする。 コンクリート製の主塔は原型そのままで、 装飾が美しい大正時代の土木構造物らしさを今に伝える。
▲ 銘板。
左岸側橋詰に見られた。復元工事時のもの。

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読書発電所とその関連施設は、 平成年間に入ってから指定が始められた 「近代化遺産」 のひとつとして、 1994(平成6)年12月に国の重要文化財に一括して指定されている。 それらには、 読書発電所 (本館、 水槽、 水圧鉄管、 附・紀功碑…関西電力社有)、 柿其水路橋 (導水路の一部で鉄筋コンクリート製、 142.4m…関西電力社有) とこの桃介橋が含まれている。 「当時の高い技術的水準を示しているとともに、 木曽谷の自然と調和しており、 大正期の水路式発電所施設を代表する近代化遺産」 である、 というのが指定の理由だ。 文化財に指定された施設のあとふたつについては桃介橋から相当離れた場所にあり、 今回は時間がなく訪問できなかったのは残念であった。

さて、 桃介橋は昭和25年町に寄付され町道となった。 橋は約55年間使用されたが、 昭和53年には老朽化のため通行止めとなり以来放置されていた。 参考文献には荒れ果てていた当時の桃介橋の状況が写真で掲載されており、 心が痛む。 4径間のうち左岸側の1径間は国道上を跨越しているが、 老朽化した橋からの木材の落下を防ぐためと思しい鉄骨組みの構造物が今でも見られる。

しかし、 木の吊橋なんか除却するのは簡単だろうから、 こんなものをわざわざ作ったということは、 南木曽町はずっとこの橋を修理するつもりでいたのだろう。 そして、 幸い1990(平成2)年に自治省の 「ふるさとづくり特別対策事業」 に 「大正ロマンを偲ぶ桃介記念公園整備事業」 が採択され、 この事業のひとつとして桃介橋復活が取り組まれることになった。 そして1992年11月より復元工事にかかり、 1993年秋に復元された現在の橋が完成した。 駅に掲示されていた 「読売写真ニュース」 にもこの橋の復元完成が報じられていたのを思い出す。

復元工事に当たって、 木の補剛トラスでは将来の維持管理に問題を残すのでは、 という意見もあったそうだが、 基本的には70年前の文化遺産を継承する方向で復元されたのは意義深いといえる。 古い木材の再利用はできず、 すべて新しいものに取り替え、 しかも記録では栗・杉・松が使われたとあったのを、 入手困難とか耐久性の向上とかの理由からボンゴジ材を一部に使用するなど変更もあったが、 ターンバックルとかケーブルバンド等の金具類で使用可能なものは再利用するなど、 近代化遺産の保存という観点からの配慮が嬉しい。

▲ 桃介橋中央主塔。
デザイン的には美しい。 残念ながらコンクリートは相当いたんでおり、 補修の跡が見られる。
▲ 補剛トラス。
ダブルワーレントラス状。 オリジナルのものとは斜材の取りつけ方法が多少異なっている。
▲ アンカレイジ。
左岸側。オリジナルのものをそのまま利用。

主塔は鉄筋コンクリートに風化等がみられるものの再利用された。 両岸のアンカレイジ (ケーブルを定着させるもの) なども再利用されている。 しかし、 木材のほか主ケーブルやハンガーなどは新しいものに取り替えられた。 耐久性を考慮し、 トラスの斜材の取り付け方法も若干変更されている。

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主塔は高さ13mの石積基礎の上に13.3mの高さの鉄筋コンクリート製の構造物が載る形で、 デザインも美しくこの橋の印象を高めていると思う。 中央主塔からは河原に降りる階段も用意されているが、 この種の階段は例によって閉ざされており、 一般の立ち入りが規制されているのは残念ではある。

補剛トラスはダブルワーレンタイプである。 ただし、 参考文献中の別な論文に 「ハウトラス」 で有名なハウ (Howe) がアメリカで1840年に特許を取得した形態、 すなわち上下弦材と斜材が木製で、 上下の格点部を鉛直方向に鉄材が結ぶ形が紹介されているが、 桃介橋のトラスはこれに極めて似ている。

各主塔からは、 斜張橋のケーブルのように張られた 「斜吊索」 なるものも用意されている。 現地の立て看板によれば、 これは19世紀末のアメリカの吊橋の特徴によく似ているのだそうだ。 アメリカ帰りの福沢桃介の 「勉強の成果」 だろうか。

▲ 中央主塔。
下から見上げる。 主ケーブルと別に斜吊索が張られている様子がよくわかる。
▲ 中央主塔部に残るトロッコのレール。
当初はトロッコの線路が橋を渡っていた。 軌間は600〜610mm程度か?
▲ 中央主塔部から河原への階段。
横から撮影したもの。 一般の立ち入りはできない。

4径間吊橋というのも珍しいように思うが、 さらに当時トロッコの線路が架設されていたというのが興味深い。 現在このトロッコのレールが主塔部に残っている。 復元された橋の橋面にも、 当時レールがあった場所がボンゴシ材 (ヒノキ板と色が違う) で示されている。 現地の立て看板によれば、 トロッコの軌道は南木曽駅から橋を経由して山中の導水路に通じていたそうである。

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南木曽町は、 町並み保存を進めている中山道 「妻籠宿」 などでも有名なところだ。 復元に際しての議論にもあった通り今後の維持管理が課題だが、 こうした町の姿勢に加え地元に木材産業を持つ強みがあるという。 参考文献で橋の紹介をした名大の山田健太郎教授 (職名等当時) は、 こうした事情を紹介しつつ論文を 「思えば、 桃介橋は幸せな橋である。」 と結んでいる。

岩国の錦帯橋なども石積の橋台を持つが、 敗戦後すぐに 「キジア台風」 によってこの橋台が流された。 錦帯橋が壊れたのはこの一度きりであり、 逆にいうと橋台が流れない限り橋は健全でいられるようである (もっとも、 最近車で錦帯橋を渡る不届きな輩がいると聞いたが)。 そういう意味では、 桃介橋も主塔部の健全性が気にかかるが、 保守をしっかり行って末長く文化財を後世に残してほしいものだと思う。


掲載した写真 (スキャナで取り込んだオリジナル画像、 桃介橋関係のみ)

画像メモ
桃介橋を下流側から遠望したもの。
公園のある右岸側から橋を長手方向に一望。
復元された木製補剛トラス。ダブルワーレントラスに似た形。橋梁と基礎, 27-8, 1993 によれば、Howe のオリジナル特許になる木製トラスの形式に非常に近いかたちに見える。
ヒノキの敷板で張ってある橋面。中央の色が違うところはトロッコのレール跡で、ボンゴシという木材を使用。
右岸側から左岸側をみる。大きく見えているのは中央主塔。
中央主塔から河原に降りる階段。鍵がかかっており一般の通行はできない。
中央主塔を下から見上げる。上流側の柱。あまり上出来のコンクリートとは思えない。
中央主塔を見上げる。下流側。河原に降りる階段は、この写真に見える2本の柱の間をくぐって降りてゆく形。
中央主塔下から左岸方向を見る。
左岸側橋詰に見られた銘板。当然ながら復元工事時のもの。
左岸側アンカレイジ。
左岸側、国道上通過部。復元工事前、橋は相当ぼろぼろだったので、部材の落下を防ぐため鉄骨を組んだものでガードしていた。これは復元工事後も存置されたまま。
主塔部分にはトロッコ用のレールが残る。写真は左岸側主塔のもの。ゲージは600〜610mm程度か?
レールの残る主塔部と吊橋部の橋面が突き合わせられている箇所。
河原へ降りる階段。橋上、左岸側から撮影。
中央主塔部のレール存置状況。
おそらく右岸側の主塔部のレール存置状況。
右岸側主塔。


参考文献

  • トラス橋特集, 橋梁と基礎, 27, 8 (1993)

更新履歴

  • 1999. 9. 19 初稿

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