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鉄道ざんまい!「夢の鉄道」プロジェクト
"RT's Railway Zammai" --- Project "Railways of Dreams"

鉄道に残された時間は?

その3 (2000. 1. 23.)

目次

「完全自動車」実現までの時間

20年くらい前に、 雑誌 「暮しの手帳」 が全自動洗濯機の商品テストを行い、 当時の全自動洗濯機が機能上非常に問題があることを指摘したことがある。 その誌上で、 メーカの担当者が 「全自動だが『完全』自動ではない」 と苦しい言い訳をしていたのが思い出される。 しかし、 その当時の状況に比べれば、 現在売られている全自動洗濯機はその完全自動にずいぶん近くなったものだと思う。

その 「全自動だが『完全』自動ではない」 という話、 自動車に関しては当時も今も変わらず成り立っている。 しかし、 これもこの全自動洗濯機の辿った途を考えるまでもなく、 「完全自動車」 に近づこうと努力していることは明らかである。 その 「完全」 ということの意味としては、 安全性や環境問題などの課題もあるわけで、 解決は全自動洗濯機のそれよりはるかに困難だとは思う。 しかし、 もし鉄道が今のままであり続けたなら、 運転者が何もしなくても勝手に目的地まで連れていってくれる 「完全自動車」 が実現した段階で その2で述べたように対抗交通手段としての鉄道はその命脈を絶たれるはずである。 それは、 それが描かれる未来があまりにも便利なものだからである。

しかし、 いうまでもなく 「完全自動車」 がすぐに実現するわけではない。 そして、 それが実現するまでの間鉄道が現状を保つと仮定することもナンセンスだろう。 となれば、 鉄道が来世紀後半にも生き残るための条件を考えれば、 事実上 「完全自動車」 の実現までの時間がそのための猶予時間であり、 その間に生き残りのための動き (または、せめてその「胎動」だけでも) が現れなければならない。

そこで、 その猶予時間がいかばかりかを考えてみるのが、 ここでの検討の目的である。

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100年前の予想…報知新聞

日本でもミレニアムという言葉が昨年(1999)後半以降知られるようになったが、 同じ頃から 「次の100年を予想する」 というのが経済関係の雑誌誌面を賑わせることが多くなった。 この関係でよく取り上げられているのが 100年前、 1901年(明治34)1月2・3日の報知新聞の記事である。 高木がこの記事の存在を知ったのは佐々木倫子氏の 「動物のお医者さん」 なるコミックであった。 この作品 (獣医さんが主人公) で取り上げられた理由は、 この記事にある未来予測の中に 「獸語の研究進歩して小学校に獸語科あり 人と犬猫猿とは自由に對話することを得るに至り 從って(中略)犬が人の使に歩く世となるべし」 という項目(「人と獣との会話自在」)があったからで、 これに関してはまあ大外れなのであるが、 他の予測も含めこの記事を眺めてみると実に示唆に富んでいることがわかる。 交通に関した予想だけみても:
  • 「七日間世界一周」 (19世紀末の最短80日が20世紀末は7日あれば可能に・ 文明国民は1回以上世界漫遊をなす)
  • 「鐵道の速力」 (列車はあらゆる便利を備え快適・ 暖房だけでなく冷房も・ 速力は2マイル/分、急行なら150マイル/時以上・ 東京神戸間2時間半、など)
  • 「自動車の世」 (馬車の衰退・自動車の価格低下)
など 「ずばり的中」 に近いのがけっこうある。 東京神戸間2時間半なんてものすごい予測精度ではないか!

ただ、 細かいことをいくつか述べるなら、 例えばジャンボジェットに代表されるような一般旅客を運ぶ航空機を予想した記述はなく、 「空中軍艦空中砲臺」 なるものが記載されているだけだ。 「空中軍艦空中砲臺」 のイメージは明らかに飛行船である。 飛行機が発明され (ライト兄弟による飛行機の「発明」は1903年)、 それがここまで大衆化することを予測しきれなかったということであろう。 その一方、 「市街鐵道」 の予想 (馬車鉄道、鋼索鉄道の存在が忘れられる・ 電気車等の大改良…車輪はゴム製、 街路上から空中及び地下へ) にある 「車輪はゴム製」 の件のように、 むしろ古いものが生き延びたケースもある。 これは当時の鉄車輪鉄レール方式の鉄道がそれだけうるさかったことの反映なのだろうが、 現在の認識としてはむしろゴムタイヤの方が転動音に関してはうるさい、 あるいはそういえる程度にまで鉄車輪鉄レール系を静かなものにできる、 というのが正しいのではないか。

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予想の精度と技術分野

まあそんなわけで、 細かい違いはあるものの100年前の報知新聞による予測は実によく当っている。 では現在その辺の予測精度は向上しているか。 科学技術庁が定期的に 「技術予測調査」 というのをやっているそうだが、 参考文献1. によればその精度はどうやら大して向上していないらしい。

参考文献1. では、 技術評論家で放送大学教授の森谷正規氏の分析を紹介しているが、 1971年の予測の20年後の的中率でいって、 情報技術分野が半数近いのに対し、 国土/都市開発、交通、海洋開発、エネルギーなど、 他の分野では的中率が1〜2割と極めて低いという。 これは、 前者が人間が自然とは無関係に 「人工物」 を作り出す技術であるのに対し、 後者が人間や自然相手の技術であることに由来する、 という。

交通は基本的には人工物の問題なのだろうと思うが、 それを広めるためには自然とのたたかいが不可欠なのはいうまでもないし、 利用者あるいは沿線住民、 それらの間の利害対立やその調整方法などのかたちで人間が関わってくるものでもある。 そこで、 以下ではこれらの要素を分離して議論することで、 精度を上げる努力をすることにしよう。

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交通関係の技術予測

参考文献1. には、 科学技術庁予測をもとに 「週刊東洋経済」 が独自作成したという 「予想される技術革新」 年表が掲載されている。 これから現在あるような自動車交通に関係の深い技術革新をピックアップしてみよう。
  1. 2008年…一般道において自動車が走行するために必要な情報を受信、検知して、 危険回避のために自動車のオンボード防御システムに信号を送る運転支援システムが実用化される
  2. 2008年…階段、エスカレータ、坂道などに対応できる知能化車椅子が実用化される
  3. 2009年…自動車(廃車)の部品や材料の90%がリサイクル可能になる
  4. 2011年…低騒音エンジン・タイヤ、 吸音土木建設資材の開発により、 自動車騒音が日本の都市域の住居専用地域で環境基準内に収まる
  5. 2011年…15分程度の急速充電で200km以上走行できるバッテリーを搭載し、 都市内交通流に適合して走行できる電気自動車が普及する
  6. 2013年…太陽電池、 二次電池を搭載した電気自動車、 燃料電池及び二次電池を搭載した電気自動車が普及する
  7. 2017年…自動運転の自動車が普及する
  8. 2021年…ガソリン自動車並みの走行性能を持つ電気自動車が実用化される
この記述を信じるなら、 鉄道に与えられた猶予は約15年、 2017年に「自動運転の自動車」が普及する頃までということになる。 そのときまで現在の状況が続いているなら、 その後鉄道は安楽死を迎えるのみだろう。

さて、 果たしてこれは本当だろうか。

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技術予測を批判的に検証する

前節で掲げた12項目のうち、 1. の高安全化運転支援システムの実用化はもはや目睫に迫っているといえる。 3. のリサイクル関係、 4. の低騒音化関係のふたつはまだまだだが、 これらも意外に早期に実現することになるかもしれない。 これらは、 予測精度に関する検討で述べた 「人工物」 によって閉じた技術であり、 そのニーズも大きいからだ。

今回のスコープからは多少外れるが似た分野の技術として 2. にある知能化車椅子のような技術が挙げられる。 これは、 以上に挙げた 1., 3., 4. よりは 「人工物」 以外との関わりあいの強い技術になるが、 現在ある自動車と同じく人間がオペレートする形をとれれば、 これも順調に実用化される可能性があると思う。

これに対し、 電気駆動方式の普及は遅れるとの見方が一般的だ。 これは、 「人工物」 以外との関わりあいは弱いのだが、 実現がまだまだ困難と考えられていることによる。 現在本命視されている燃料電池車にしても、 いくつかのメーカが2003年ころからの販売を公言しているが、 白金の資源枯渇が心配だとか、 二次電池や燃料電池の性能改善が思うように進まないとか、 いろいろな問題を抱えており、 大幅な普及はしばらくないだろうと言われている。 このことから、 5., 6., 8. は、 ここに書いてあるよりさらに遅れる可能性が高い。 ということは、 4. で触れられている騒音等の問題以外の自動車の対環境特性改善 (CO2やNOx等の排出量削減など) は簡単には進まないということになるかもしれない。 従って、 この面から特に大都市圏では、 自動車の利用規制の世論が今後10年程度の間は高まってゆくことになるだろう。 しかし、 それはあくまで大都市圏に限られ、 このような世論だけに頼っていては鉄道の大幅なシェア低下は避けがたい。 自動運転等のインテリジェント化によって、 こうした問題点についても相当な緩和が期待できるからである。

となると残るは 7. の自動運転がいつ実現するかが議論の焦点になるわけだが、 実際にはこれがほんとうに実現可能か疑問視する向きすら少なくない。 ここでは2017年となっているが、 別な予想によれば、 完全自動で 「どこでも走れる」 自動車が完成するまでには、 なお40年程度かかるとの見方もある。

高木はこの時間がかかる方のシナリオに1票を投じる立場だ。 なぜなら、 先ほどの予測精度に関する議論に戻ればこの問題があきらかに 「人工物」 以外との関わりを強く持つ技術だからである。 道路上に存在する他のいろいろな人やモノ、 すなわち歩行者、自転車、二輪車、人間が運転する自動車、 事故・工事等の個所、そして果ては迷い込む動物などのことまで考慮する必要がある。 自動運転するということは、 これら事前に想定される事態だけでなく、 未知の状況に対してでも常に的確な判断ができなければいけないということを意味する。 これはどう考えても容易ではない。

実際には、 ハンドルに手をやらずとも高速道路を (前を走行する別な車への追随という形ではあるが) 走破できるシステムは既にあるらしい。 当然のことながら車線を自動検知、 ハンドル操作も検知されたその車線情報に従って行い、 前の車との間隔は適切に保つ。 別な車が割り込んでくれば、 また間隔を広げるようコントロールして元の状態に復する、 ということは完璧にできるそうだ。 となれば、 すでに鉄道が自動運転を実現していることからもわかるように、 自動運転装置を取り付けた車両だけが走行可能な高速道路を用意することができれば、 そこだけ自動運転可能な自動車を売り出すことは2017年よりもずっと早い段階で可能であろう。

しかし、 「自動運転専用高速道路」 はやはり鉄道とは異なるので、 鉄道では無視していたことが道路だと問題になる、 というような事態が山ほどあり、 技術開発には相当な時間がかかるはずである。 しかも、 それだけではその2で述べたような未来をすぐにもたらすことにはならないのである。

そして、 その段階から一般道路全区間自動走行に移行するのにも困難を伴いそうである。 だいたいが、 そのような車が事故を起こした場合の責任を誰がどうとるか、 という問題 (これはまさに「人工物」の外の、 人間がからむ問題である!) ひとつとっても、 解決は容易ではない。

さらに、 仮にその辺の問題点がすべてみごと解決されたとしても、 道路交通にとって最大の弱点である 「量を捌けない」 という側面は引き続き残る。 実際にどのようなことをすれば 「量を捌く」 ことができるようになるのかはわからないが、 そのためにはいずれにせよ相当な投資を長期間にわたり続ける必要があるはずだ。

結局、 この 「特定高速道路上のみ自動運転可能」 という状態が、 完全自動車が実用になる時代 (2040年頃?)まで、 相当長期にわたって続くことになるのではなかろうか。 この間、 この自動運転可能な道路区間を全国に広めて行く努力が順次なされることになるのだろう。

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鉄道は生き残れる

以上のように、 ITSなどの道路システムの革新による自動運転車両の実現がこれだけ時間のかかることであるとすれば、 鉄道にはこうした道路システムの大改革を迎え撃つだけの時間がまだ十分あることになる。

ただし、 たびたび指摘するように 「人工物」 以外との絡みが多い技術は実現が容易でない。 鉄道システムの改良にもこの絡みが多いことから、 この 「迎え撃つ」 態勢を作るためにも相当な時間がかかる。 このことを考慮にいれるなら、 鉄道が生き残れるか否かはあと10年間程度の鉄道における技術開発の方向性に強く依存している、 といわざるを得ない。 従って、 「鉄道システムが21世紀の後半まで生き延びる可能性は十分ある」 とは考えているが、 そのような方向性が十分打ち出されているとは言いにくい現在、 必ずしも楽観的になりうる状況ではないと高木は考えている。

先ほど述べた予測からすれば、 2040年頃の全自動運転車の全面的実用化をにらんだ様々な投資が、 道路に対して継続的に行う方向となるはずだ。 その方向性がみえてくるまでに約10年程度の時間がかかるだろうから、 この10年が鉄道にとって最後の勝負どきとなるはずである。

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軌道交通の将来展望に欠ける「明るさ」

参考文献1. の 「予想される技術革新」 年表には、 軌道交通がらみの技術革新に関する記述も多少ある。 これらをピックアップしてみると以下の通りになる。
  1. 2009年…貨物輸送における鉄道と道路の結節を円滑にするため、 トラックがそのまま鉄道車両になるシステムが実用化される
  2. 2013年…特定地域やターミナル間を結ぶ交通として、 超小型自動車を用いた回送機能を持つ共用連絡車システムが実用化される
  3. 2016年…大都市間など特定区間において、 磁気浮上リニア方式によりガイドウェイ上を車輪を用いず超高速走行でき、 かつ一般道では車輪を用いて自走するデュアルモードタイプの自動車交通システムが開発される
これらのうち、 1. の軌陸両用トラックのような技術は、 コストとの兼ね合いはあるものの比較的すぐに実用化できると思われる。 軌道上で磁気浮上、 それ以外は車輪走行という 3. のようなシステムは、 未来予測の中に出てくる技術としては唐突の感を免れない。 何しろ現時点では、 ピュアな磁気浮上式鉄道そのものが実現するかどうかわからないという報道 (報道の例は参考文献2.を見よ) があるくらいで、 その実現が前提できなければこのような技術の実現可能性もほぼゼロだからだ。 ただし、 これを広い意味で 1. の乗用車版と捉え直せば、 同じようなかたちで実現できると考えられる。

残る 2. の 「回送機能を持つ共用連絡車システム」 のようなものに関しては、 いくつかの拠点を設置することが必要である。 その拠点間は高品質な公共交通機関でリンクされる必要があることになる。 つまり、 この技術は 「高品質な公共交通機関」 による拠点間リンクがあってはじめて利用者に支持される性格のものであることがわかる。

しかし、 これらの予測は、 仮に実現したとしても鉄道の未来をバラ色のものにするには弱すぎる。

そもそも何がしかのコストをかけて軌道交通を一部で利用する意味が、 どれほどあるのかを考えてみなければならない。 自動車の電気駆動の技術開発は、 決して順調ではないものの確実に進んでおり、 またそれと対抗する形で従来の内燃機関の改良も順次進んでいる。 そうであれば、 電気駆動でエネルギー消費を減らすためにこうしたシステムを開発する意義が感じられない。 軌陸両用システムの場合、 かえって軌道を走行する機構が不要な重量増を招き問題を悪化させる可能性すらある。 結局のところ、 道路だけでは交通容量に対応できない場所でのみ使うことになるのだろうが、 全自動運転車両が導入されることが想定できればこれもあまり意味はなさそうである。 先ほどの予測が正しければ、 全自動運転車両の導入に合わせてそのような場所を局限化する投資が大規模に行われるだろうからだ。

共用連絡車システムのほうはそれよりは期待できそうだ。 こうしたシステムが実現したさい、 他の交通システムが現状と同じならば各拠点で軌道系の公共交通への乗換えが期待されるだろう。 しかし、 全自動運転車が出現していれば道路上を走るバスの高度化したものがそれにとってかわる可能性は十分ある。 共用連絡車システムとしては、 正直どちらでもかまわないわけである。

このような未来予測しか出てこない、 ということ自体が、 鉄道の明るい将来を誰も信じていないことから来るものなのではないだろうか。

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鉄道の将来展望

鉄道の明るい将来を信じた未来予測が世の中にないのなら、 それは努力して我々が描いてゆくしかなかろう。 以下、 高木がすでに発表した参考文献3. に基づき記述してみよう。

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反感を買われる鉄道から、将来展望の開ける鉄道へ

まずは現状の鉄道に対する世間の認識を考えてみよう。 実際には、 世界の鉄道の相互比較をしてみると、 日本の鉄道ほど 「乗客指向」 の強い鉄道はないといわれる。 それなのに、 近年の日本の鉄道はそれどころか乗客からの反感を買いつつあるようにさえ見える。 その兆候はいろいろなところに現れているが、 典型的なのは乗客による鉄道係員への暴力の増加である。 JR東日本によれば、 平成6 (1994) 年度に270件の暴力事件が発生、 その後多少減少したものの平成9 (1997) 年度には再び245件と増加傾向を示しているという。

この背景には、 乗客の協力に甘える鉄道側の姿勢がある。 氾濫する 「乗車マナー」 はその姿勢の反映である。 近年の乗車マナーキャンペーンにおいて駅に掲示されるポスターの中には、 時として滑稽なことを勧めているものまである。 電車内での通路を確保するためのマナーと称し、 アタッシュケースを 「前に抱えて」 立っている男性の写真が掲載されていて笑ってしまったことがある。 そのポスターの中でいっしょに立っている女性は、 小さなバックパックを背中から前に回す形だったのでまだよかったが、 アタッシュケースは前に抱きかかえるような荷物ではない。

マナーは利用者相互のトラブルを防止するための乗客の相互協力を勧めるものだが、 本来はその原因を絶つ努力をし、 その上でなお相互協力が必要なことに限ってマナー向上のお願いをするのが筋であろう。 例えば、 1人あたりの幅が440mmに満たないような狭いロングシートしか用意しないのに、 定員を守れといわれたら、 反感は拭いがたい。 肘掛けを用意する、 クロスシート化するなどの対策で、 定員がいわば自然に守られるような状況を作る努力が必要だ。

このような状況が作れない理由はいろいろあろうが、 もっとも基本的なものは輸送力自体の不足と多様なニーズに対応したサービスの供給能力の不足である。 この不足状況は、 大都市の通勤交通市場における鉄道の事実上の独占を背景にして、 戦後の長きにわたり放置されてきた。 「右肩上がり」 といわれる継続的な経済拡大もそれを容認させる要素だったろう。 しかし、 既にのべたように鉄道に与えられた時間は (まだ10年程度はあるものの) 残り少なくなっている。 鉄道が惰眠をむさぼっている間に、 道路交通の技術革新による変貌が先に実現してしまったら、 いくら対環境特性など強調してみたところで都市鉄道はもはや存在理由を失うことになろう。

蓄積された鉄道への反感も、 「右肩上がり」 時代の終焉とともに鉄道に対してその牙を徐々にむきはじめている。 最近、 鉄道に対する無差別爆弾テロを企てた輩が逮捕されたが、 それ以外にも駅やその周辺で不可解な通り魔殺人等が相次ぐようになった。 その事件を取り上げた読売新聞 「編集手帳」 (参考文献4.) は次のように述べている。

この事件を同僚と話題にした時、 二人が、 電車内で口論がこうじてナイフを持ち出した若者を見たことがあると言い出した。 居合わせたのは十数人で、 うち二人というのは相当な高率といっていい。
日本でも、 安心して鉄道を利用することができなくなる時代が実にすぐそばに迫っているのである。

これだけの不利な要素があってもなお、 高木は長期的に見て鉄道に 「勝ち目」 があると思っている。 道路交通が都市通勤鉄道と対等に競争するには相当な技術革新が必要である。 この潜在的な競争相手を想定しながら鉄道の明るい未来を拓くためには、 鉄道も本質的な意味で乗客指向の大胆なイメージ変革の必要があるが、 道路交通の場合と異なり従来から鉄道が持つシステム技術の集大成で可能だからである。 何よりも、 道路システムとは異なることとして、 自動運転の導入に適した right of way を鉄道が自己保有している強みもある。

鉄道は基本的には都市のためのものであろうと思うが、 政治システムなどの問題から、 日本では都市部から地方へ不当に大きな社会資本投資が流れる枠組みができていたことは、 今さらここで議論するまでもないだろう。 ところが、 それにより長く投資不足の状態におかれていた都市部の社会資本を増強しようという動きが最近にわかに起こっており、 これは鉄道にとっても設備増強のための投資を活発化するよい機会となり得る (急速な高齢化を迎える日本においては、 これが最後の機会だとも思われる)。 しかし、 鉄道が長期ビジョンもなく現状の独占状況にのみ依拠し漫然とした経営を続けていたのでは、 鉄道へこうした投資が多く回ってくることも期待はできまい。

道路交通が大都市での鉄道の 「独占」 成立の最大条件である容量不足を克服するためには、 大幅な技術革新と大規模な投資がまだ必要であるのと同じく、 鉄道の明るい未来も、 本当の意味での乗客指向の画期的な新技術によって初めて可能になると考えられる。 鉄道の可能性を拓くためにあらゆる技術的可能性を考え、 それを取り込んだ展望を描くことが急がれる。 その展望は、 普通に想像されるよりはるかに明るいものになるはずだと筆者は信じている。

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評価技術の欠如という不幸

議論を始めるにあたりまず困るのが、 「乗客が喜ぶ」 とは何かということであろう。 輸送機関たる鉄道が供給するサービスも商品として市場での評価にさらされるが、 この評価を事前に予測するのは確かに困難である。 しかし、 市場が下す評価にはそれなりの理由、 根拠もあることからしても、 全く不可能ということもあり得ない。 そして、 市場の評価とは最終的な選択者たる乗客の判断そのものだから、 乗客の立場から技術を評価する、 ということについて、 鉄道技術者はもう少し敏感であるべきだ。

ところが困ったことに、 この手法が少なくとも日本では全く存在しないに等しいようだ。 その結果は、 乗客と鉄道事業者側の利害の不幸な齟齬として現れる。

一例として混雑率あるいは乗車効率の評価を挙げよう。 例えば、 60%という混雑率を鉄道企業は低いと見るようだ。 それが朝のラッシュ時間帯であれば、 乗客も同じ判断を共有することになろう。 しかし、 これが昼間時間帯であると乗客にとってはいやな混雑率である。 立席ベースの定員で60%では半数近くの乗客が着席できない。 当然、 座席が確保できる程度にまで輸送力を増してほしいと思うだろう。 ところが、 鉄道企業の方は定員以内だとして、 むしろ乗車効率を60%程度に上げるように輸送力を調整してしまう。 需要予測手法が確立されておれば、 このようなことをすれば乗客が鉄道利用を敬遠するため、 収入を最大にするという観点だけからいってももう少し低めの混雑率に誘導するのがよいことが定量的にも把握できるはずだ。 結果的には乗客はいやな思いをし、 鉄道側も収入が減って、 二重に損をすることになる。

このレベルの評価技術しか持ち合わせていないから、 これ以下の議論には定量的な根拠がないことになる。 この種の議論が技術者の間で真剣になされてこなかった理由の一つは、 そういう観点からの定量的評価を行う手法がなかったからではないかと思っている。 議論を深めるためには、 技術評価の手法がぜひ必要なのである。

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「乗客が喜ぶ」ために必要な前提

需要予測等の技術が十分なレベルに達していないため、 定量的な議論は諦めざるを得ないが、 定性的には乗客が喜ぶためになすべきこと自体ははっきりしている。 すなわち、 「より安く」 「より速く」 「より快適に」 であろう。 しかし、 これらいわば 「本題」 に入る前に、 これら以外の点、 すなわち安全性・信頼性について追加して議論しておく必要がある。

日本の場合、 鉄道の安全性に関して特に大幅に改善する余地はあまりない。 実績として自動車交通に比べ乗客の死亡率という観点で1000倍程度の開きがある。 安全性低下は社会的に容認されまいが、 これ以上の改善で乗客が目に見えて喜んでくれるとも考えられない。 もちろん、 山陽新幹線で表面化したコンクリート劣化問題のように、 安全性に直結する問題点もいくつか指摘されている。 従って、 実際にはこのレベルを維持する努力というのは大変なものであることは指摘しておいてよいと思う。

広い意味での安全性問題としては、 日本でも今後急速に駅構内や車内での治安対策が重要になってくるだろう。 もっとも、 既にかなり多くの女性が列車内で性犯罪者 (いわゆる痴漢) の犯罪被害にあっているわけだから、 女性の目からみれば現状でもちっとも治安がよくなんかないのかも知れない。 その象徴なのかどうか、 東海道線・横須賀線や総武快速等にあるグリーン車に朝ラッシュ時に乗ると、 かなりの数の若い女性を見ることができる。 グリーン車はさすがに全員着席に近い状況なので (あの運賃・料金設定で立っている人もいるあたり信じがたいが)、 痴漢に逢う可能性もはるかに小さいだろう。

一方、 近年一部の鉄道で人身事故等により輸送の定時性が大きく損なわれる事態が頻発している。 安定輸送もそれだけで乗客が喜んでくれる性質のものではないが、 事故を大幅に減らすのは困難であり、 現在の状況ではひとたび事があると多くの乗客に大きな影響を及ぼすため、 特に事後処理技術のレベルを上げておく必要性が高い。

現在の技術では、 本来一体であるべきシステムを事故対策のためにあちこちで 「切り離し」 可能なようにしてあるが、 この結果事故等がない状態でも直通運転が不可能、 または乗り継ぎが不便になるなど、 通常時のシステムの性能が犠牲となることがある。 そうではなく、 直通運転など必要なサービスはそのままに、 列車運行乱れの影響を局所化する技術が求められている。

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「より安く」「より速く」「より快適に」

では、 乗客たちの求める 「より安く」 「より速く」 「より快適に」 について、 もう少し詳細に考察することにしよう。

「より安く」
金銭的に乗客が負担すべきコストは安ければ安いほどよいのかも知れない。 しかし、 輸送にかかるコストは応分に負担してもらうという原則のもとでは、 乗客はそれぞれのニーズに応じサービスを選択することになろう。 従って、 鉄道企業としては、 こうした乗客が 「払う気になる」 コストで 「買う気になる」 サービスを提供するのが狙い目である。

乗客にとっても、 ニーズに応じたサービスの選択が可能なことが望ましい。 しかし、 現状の多くの都市鉄道では、 選択の余地がなかったり、 あってもより自分のニーズに合致した車両が極端に高価 (例: 東海道線・横須賀線・総武線のグリーン車)、 または供給量が不十分 (例: 各社のいわゆる「通勤ライナー」) である。

鉄道は基本的に大量輸送機関なのだから、 いわば薄利多売に集中すべきだろう。 従って、 多少高く売れ、 しかもある程度のヴォリュームを供給できるサービスを基本に据える必要があると思われる。 問題は、 現在の鉄道がこうした需要の大きな列車を多数供給できない態勢にあることだろう。

例えば、 東京の京浜急行線では12両編成の 「快速特急」 (今では快特という略称が正式な名称になったそうだが) が3駅停車・最高120km/hで突っ走るのと同じ品川・横浜間の線路上を、 20駅以上頻繁な停車を行う普通列車が4両編成で走っている。 京急は相当な努力をして待避線の増強を図っているが、 列車本数が少しでも多くなれば、 普通列車が通過主体のこうした列車の足を引っ張る傾向が顕著だ。

鉄道会社としてはいろいろな方面からこの対策を考えて行く必要があろう。 ひとつには複々線化や待避線増強などのハード的投資が挙げられるが、 他線との直通運転等によって列車停車の必要性自体を低減する手法や、 列車ダイヤ作成技術による克服などのソフト的手法も重要だ。

「より速く」
新幹線のような超高速鉄道を除いた多くの鉄道では、 物理的な高速化もさることながら、 乗り継ぎや途中駅停車による損失を減らすことによる到達時分短縮も重要だ。 可能な限り乗り換えや途中駅停車を減らした直通列車で旅行が可能であると、 そのサービスは高く売ることが可能になる。

このため、 列車としては多彩なサービスを提供する方向を目指すことになろう。 例えば、 現状では15両編成の電車が東京駅と小田原駅の間をすべて各駅停車で往復しているところ、 新しいサービスでは5両編成が3本走り、 1本目は小田原から東京・上野経由で大宮方面へ、 2本目は御殿場から新宿経由八王子方面へ、 3本目は上野から常磐線方面へ、 そして東海道線上での途中停車駅はそれぞれ異なる、 といった具合である。

上の例において、 新しいサービスでは東京・上野間に現在はない連絡線の存在を仮定したが、 このようにいくつかの接続線路を整備して直通運転を行うことで、 この意味での大幅な改善の可能性が出てくる。 いくつかの本線と支線の関係のように、 支線の乗客は本線との接続駅でほとんどが本線列車に乗り換え同一方向に向かう場合も、 直通化により改善を図ることができる。 都心部などで大量の乗り換え客が発生している駅では、 短絡線使用の直通運転で駅の混雑緩和も同時に図ることができる。

「より快適に」
快適性はいろいろな内容を含みうるが、 基本は座席があることだろう。 残念ながら、 未だに日本では快適性を増すことは輸送力増強とほぼ等価といえ、 断面輸送能力の増加が本質的な改善策となる。

前節で、 到達時分短縮のために停車駅見直し (各駅停車基本から通過主体へ) と連絡線の整備による直通化を行うべきだと述べたが、 この手法は利便性向上とともに輸送能力の増強にも効果がある。 つまり、 停車によって線路をふさぐ時間を減らすため、 より多くの車両が通れるようになるのである。 十分な輸送力増強のためには新線建設や複々線化などの大規模投資も欠かせないが、 その金額をこうした輸送能力向上技術によって抑制することは、 現状からの改善を可能な限り短期間で目に見える形で乗客に提示するためにも重要である。

このようにして輸送力が増強できて初めて、 快適性を高めるための議論ができることになる。 輸送力に余裕ができれば、 手荷物サービス、 供食サービス、 子供連れの家族向けの個室サービスなど、 利便性・快適性向上のためにやりたいことは山ほどある。

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一歩先の技術

ソフト連結
前章で述べたように、 多様なサービスを提供しながら輸送力も大きく保つのは、 列車が大単位であるとそう容易なことではない。

例えば、 東京の中央線の都心側終着駅は現在事実上東京駅だけだが、 既に述べたサービス多様化をここでも実現しようとなると、 一部は総武線方面に直通、 一部は山手線へ、 一部は中野から東西線へ、 などと考えたくなる。 列車の停車駅も多様化させたくなろう。 ところが、 こうするとある駅から乗ると必ず東西線方面行きで、 東京駅に行きたいのにどこかで必ず乗り継ぎを余儀なくされる、 といったようなケースが生じるだろう。 分割・併合によればこの問題をある程度回避できようが、 分割・併合自体に時間がかかるため頻繁にはできないし、 列車間隔がつまりがちな都心の大駅では事実上不可能と見られる。

「ソフト連結」 (参考文献5.) は、 この問題点を抜本的に解消する技術として注目される。 きわめて短い間隔をおいて走行中の車両群 (仮想的な列車) が走行中についたり (併合) 離れたり (分割) を繰り返しながら走行するので、 極めて多様なサービスに柔軟に対応でき、 長大固定編成よりさらに輸送力増強の可能性が広がる。

この技術は実用化されてはいないものの、 既に実験等は行われており、 比較的近い将来の実用化が十分可能である。

踏切、ホームドア
ソフト連結技術の最大の問題点は、 機械的に連結されていない車両間の距離がブレーキ距離よりはるかに短くなることである。 シートベルトを着用しない鉄道の場合車両と車両の衝突は許容できないから、 特に先行列車より後続列車の速度が高くなる 「併合」 動作中に先行列車が急停止するような事態はきわめて低い確率にしなければならない。 このためには、 踏切とともに線路に対しむき出しの駅ホームを何とかしなければならない。

このうち、 駅中間の踏切については、 ソフト連結であってもともかく 「列車」 が 「出来上がった」 状態で走行することを仮定できれば、 従来のハードな連結での考え方の一部を援用できるような何らかの方法で問題を回避することができそうである。

問題は、 ソフト連結の過程で車両間の距離が中途半端にあいている場合であるが、 このようなケースは駅周辺でしか発生しない。 この際に先行列車が不意に停止しないでくれればよいことになる。 踏切については駅周辺のものについては除却する必要があろうが、 それができないのなら鉄骨で組んだような大掛かりな装置とするような手が使えるかもしれない。 ホームについてはいわゆるホームドアが役に立つだろう。

(注)除却……要するに踏切をなくすこと。 通常は立体化のことを指すけれど、 単純に閉鎖してしまうのも除却の1方法ということになる。 除却ということば自体は、 設備をなくすという意味に一般的に使われるらしい。 例えば、 電力会社が変電所内の変圧器を取り外すような場合も 「除却」 ということばを使うはずである。 (本記述はK博士のご指摘により追加したことを記し、 謝意を表する。 2000. 2. 20 記)
踏切に関しては、 従来の鉄道のように長大編成をソフト連結でない手法 (いわば「ハード連結」) で組んでいる場合でも、 列車ダイヤを高密度にしていった場合に問題が起きることが知られている。 こうした踏切問題を解決する有効な手法はなさそうであり、 駅中間のものも含め立体化等の努力を継続的に払うことが必要になろう。

分岐の問題
また、 ソフト連結で自在にいろいろな路線への直通運転をしようとする際には、 分岐装置が問題になる。 きわめて短い時間間隔で走行している車両群のうち最初の何両かが直進し、 後方の車両は分岐して別路線に入りたいとなると、 現状の地上分岐では 「列車」 は分岐装置の十分手前で分割を行い、 十分長い時間間隔をもってこの分岐装置を通過しなければならない。 これを回避するために、 車両が自分で走行方向を定める 「車上分岐」 技術 (参考文献6.) の開発がぜひ必要である。

これらの技術が実際に活用されれば、 機械的に連結された長大編成という従来のイメージは消え、 車両は小単位化してゆくことになろう。 結果的には、 このことは都市鉄道とLRTやバスのようなサービスが融合して行くことをも意味すると考えられる。

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案内システムの重要性

さて、 このような形で柔軟・多様なサービスが実現した場合、 最大の問題点はそれが利用者にとって極めて複雑でわかりにくいサービスとなることだろう。

このようなシステムを突き詰めて行けば、 乗客は自分が乗るべき車両がどれかなどを現在のように容易に知り得なくなる。 そもそもスケジュール運行自体不可能になるかも知れないが、 デマンド運行でも複雑な路線網をサービスするものであれば、 エレベータのようにボタンを押して待てばよい、 というほど単純にはなり得まい。 従って、 乗客への案内情報や、 乗客の要求などに応じた列車群への指令情報などを与える情報システムが重要性を帯びる。

こうしたシステムが存在し、 個別の乗客とシステムとの間を緊密な情報ネットで結ぶことによって、 行き先や客室内設備に関する好みなどの乗客の個人情報をもとに、 案内情報が生成され、 個別の乗客ごとに提供されるようになる。 乗客サイドから見れば、 このシステムを戸惑わずに利用できるようになり、 個別に提供される利便性を最大限に享受することができるようになる。 一方、 鉄道システムにとっても、 リアルタイムで、 または統計的に得られる情報をもとに、 サービス提供に要するコストをさらに削減する可能性が生まれる。

こうした技術が進行し、 鉄道網がLRT等のように一般人にもアクセス容易な形で広まっていけば、 いずれは軌道上を走行する自家用車のようなものが許容されることすらあるかも知れない。 軌道上の車両のナビゲーションは、 IPASS コンセプトにおいて個別の乗客を誘導するよりははるかに容易なことである。 まあそこまで実現するとは当面考えられないにしても、 現在の観光バスに相当するようなサービス (安い価格で、 ダイヤ等に縛られない事実上オン・デマンドなサービスを提供する) が軌道交通上で実現する程度のことなら可能性は十分だ。 そのことを通じ、 鉄道においても電力システムで世界的にみられるような参入自由化が、 現在ヨーロッパで行われている上下分離方式より乗客にずっとフレンドリーな形で実現することになるだろう。

高木が大学時代に曽根教授などとともに提唱した IPASS コンセプトは、 まさにこのようないわば鉄道ではなくなった鉄道、 公共交通の一つの究極型と考えられるものには不可欠な情報インフラの仕様を検討するものであった。 IPASS によって完成しうるきわめて高機能な鉄道システムによれば、 少なくとも都市部で現在の自動車等と十分に伍して行く力は十分、 ということになろう。 鉄道企業も 「少し高い」 サービスを多くの乗客に売りさばくことにより、 より profitability を改善することができる、 と高木は楽観視している。

しかし、 このようなことが実現するためには、 当面鉄道側の努力だけでは限界があり、 public sector からの相当な助力 (主に財政的な) が必要なことも確かだ。 それを得るためにいま必要なことは、 「軌道系でここまでできる」 という、 「現実化しうる夢物語」 を社会に向け鉄道業界がどこまで強力にアピールできるかにかかっている。

読者諸兄としても、 今回の話を読む限りにおいては 「鉄道ファンによる fanatic な夢物語」 との印象を免れなかろう。 しかし、 じっくり読んでいただければ、 これらが現在までに鉄道が蓄積してきた技術の延長で可能なことばかりであることにに気づくはずだ。 この10年が勝負だと高木が思うのも、 そのことが理由である。 そこで、 次回以降、 この夢物語を現実化するために必要なこと、 そしてそれを現実化させることにどんな意義があるのかを、 順次ご説明していきたいと考えている。

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参考文献

  1. 「特集・21世紀IT革命21の衝撃」, 週刊東洋経済, 5596 (1999. 11. 20)
  2. 「検証 バブルの幻? 実用化いつ? 夢あせるリニア」, 朝日新聞, 2000年1月18日(火)朝刊, 40896号 (2000), 33面
  3. 高木: 「私の提案/乗客に喜ばれる鉄道になるために」, JREA, 42, 1, pp. 46-48 (1999)
  4. 編集手帳, 読売新聞, 1999年10月3日(日)朝刊, 44349号 (1999), 1面
  5. 森谷, 曽根: 「ソフト連結」, 計測と制御, 32, 7, 600 (1993)
  6. 曽根, 古関: 「車上分岐方式の研究(第1報 その可能性と効用)」, 平10電気学会産業応用部門全大, III, 247 (1998)

関連リンク


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高木 亮 / TAKAGI, Ryo webmaster@takagi-ryo.ac
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