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2000. 5. 27. / May 27, 2000

多臓器不全国家ニッポン
Japan: the country of multi-organ failure

目次 / Contents

絶望に走る?少年たち

Desperate? youths

(English abstract not yet available)
今年の 「黄金週間」 は、 2件のセンセーショナルな凶悪犯罪にいろどられることになった。 どちらも17歳の少年の犯行だ。 1件目は愛知県豊川市で、 「人を殺してみたくなった」 といって老婦人を殺害したというもの。 その翌日が、 佐賀発福岡ゆき高速バスを乗っ取り、 女性乗客1人を殺害するというショッキングな事件である。 バスジャック事件が起きた5月3日のTBS「News23」で、 筑紫哲也氏が 「連休なのに休まる暇がない」 という意味のことを番組の冒頭でつぶやいていたのが印象的であった。

こうした事件が起きると、 決まって少年法の改正が取りざたされる。 確かに少年法に問題があることを否定することは難しそうだが、 感情論ではなくもう少し冷静な議論がほしいものだ。 そうすれば、 少年法の改正で刑事罰を与える年齢を引き下げる程度のことで話が済むほど、 問題は単純ではないことがすぐわかるはずなのだが。

この種の少年たちの無軌道ぶりに慌てているのは日本だけの話ではないようである。 銃社会といわれるアメリカでも、 ここのところ学校などで生徒らによる銃を用いた凶悪事件が相次いで、 社会に衝撃を与えているらしい。 試しに過去記事が検索できる Mainichi Interactive あたりで 「銃乱射」 とかいうキーワードで検索を試みると、 アメリカの銃乱射事件がずらりと出てくる。 先月もこの国では動物園で少年による銃乱射事件があり、 16歳少年が逮捕されたのだそうだ。

このような少年犯罪の増加は貧富の差の拡大という負の側面の反映なのだ、 とする意見もあるらしい。 アメリカ社会がかかえる格差が、 そうしたことに敏感な少年たちの間に絶望感を生んだ、 ということなのかも知れない。

似たようなことは日本でもいえそうだ。 ことに、 国全体に閉塞感がみなぎってお葬式のような雰囲気のわが国では、 それが犯罪の増加に直接的に影響を及ぼしていることはほとんど明らかだ。 連休中に相次いだ17歳の事件にしても、 その後でそれの真似事のような事件が相次いだことは、 そういう自暴自棄な雰囲気が醸成されていたと考えなければ説明が難しい。 じっさい、 あのバスジャックの模倣犯まで現れたのだから恐れ入る。

現在の状況は、 国の前途にいわば前向きな危機意識をもつというよりは 「あきらめ」 ムードのなか無為にときを過ごす、 というのに近い。 あの幕末の 「ええじゃないか」 の大流行と似た状況である。 こういうことの反映であるわけだから、 ことは少年犯罪に限らない。 じっさい、 オウム真理教事件をはじめ、 いままでにないおかしな事件が山ほど起きていることに気づくだろう。

しかし、 少年犯罪の増加をこのような社会の雰囲気だけで説明し切れるだろうか。 そんなことはもちろんない。 海外の例を見ても、 少年犯罪の増加に頭を悩ます国は少なくない。 最近聞いたケースはポルトガルである。 その一方、 アメリカでも大都市ニューヨークではここ数年犯罪が顕著に減少している。 これはジュリアーニ市長の犯罪対策が奏功していると考えたほうがいいだろう。 もちろん、 大都市がこの好景気の恩恵を受けやすい場所であるということはあろうが、 犯罪対策の第一歩は徹底した取締りなのである。

その意味では、 日本で取り沙太されている少年法の変更も、 必ずしも無意味とまではいえない。 学校現場で服装の選択の自由すら与えられていない子どもたちに、 刑罰だけは大人並みに科すというのはずるいと思うが、 信じがたい凶悪事件の犯人が例えば2〜3年で通常の暮らしに戻ってしまう、 というのを否定したい感情も理解できる。

だいたいが、 社会の雰囲気がどうあれ、 国民の大多数は犯罪なんか起こさないのである。 自分が犯罪を起こしておいて、 「社会の雰囲気」 をエクスキューズにされてはたまらない。 犯罪はあくまで犯罪、 罪は罰せられるべきものである。

しかし、 日本の事情は明らかに特殊である。 ことが少年法だけのことなら、 それを改正するかしないかという単純な二者択一の問題として考えられる。 どちらをとるにしても問題の解決は決して困難ではない。 だが、 実際には日本では多くのことが同時に噴出していて、 ある問題を避けるためにひとつの抜け穴を塞ごうとある行動をとれば、 別な問題に突き当たってしまうことが多い。

少年法の問題にしても、 仮に刑罰対象年齢を引き下げても効果は薄いと思わざるを得ない。 当たり前のことだが、 仮に刑罰が重くなっても、 犯罪者を捕まえようとする努力を誰もしなかったら何の意味もないだろう。 ところが、 実際には日本の警察にはそのような努力を継続的に行う体制が必ずしも整っていないようなのだ。 栃木県で19歳の少年が監禁された上暴行を受け死亡する事件があったが、 家族による再三の嘆願に対し、 信じがたいことに警察は事件として取り扱うことすらしなかったという。 こんな警察であるならば、 刑罰を強化することに何か意味を期待できるだろうか? げんに少年事件では裁判で無罪となるケースが非常に多いことから考えて、 逆に悲劇を増やすだけに終わる可能性すらある。

政治家の無能、 国家財政の破綻、 官僚の腐敗、 教育の荒廃、 経済界のルール無視……。 ひとつひとつは小さいことと片づけることもできるのだが、 こうしたことがあまりにも広範囲にわたって起こっているところに、 現在の日本のおかれた状況の厳しさがある。 最近よく聞かれるようになった医学用語 「多臓器不全」 がこれほど似合う国もないだろう。

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日本没落論

Discussions on "the Fall of Japan"

(English abstract not yet available)
昨年、 森嶋通夫氏(ロンドン大学・大阪大学名誉教授)が 「なぜ日本は没落するか」(参考文献1.) というショッキングなタイトルの本を出版した。 正直なところ、 この著書に示された森嶋氏の分析は素人目にも緻密さを欠いている。 文中に実名を挙げて非難された小宮隆太郎氏 (青山学院大学教授) など、 怒りにふるえて 「批判的書評」 なる文章を隔月刊の 「論争東洋経済」 1999年11月号 (22号=参考文献2.) および2000年1月号 (23号=参考文献3.) に連載しているくらいだ。

「論争東洋経済」 の記事で、 小宮氏は森嶋氏への批判を徹底的に行った上で、 日本の長期的繁栄に関し森嶋氏と異なり楽観的な展望を述べている。 その多くはそれなりに説得力のある反論なのだが、 こちらもいくつかの重要な部分であまりに楽観的にすぎると思われるところがある。 例えば、 日本の学生や教育システムに関する小宮氏の見解 (参考文献2., pp.118-124) は、

  1. 日本の学生はきわめてまじめでやる気があり、信頼もおける。
  2. 学力低下の兆候はない。 英語力は向上しているし、 コンピュータなどを利用し情報を集め文章を作るなどする能力も高まった。 むしろ今の方が20〜30年前より高いくらいだ。
  3. 論文数や論文の被引用数などからみて、 日本の科学技術研究の成果は非常に大きい。
というものだ。 このうち1. はいまでもおおむね正しいと思う。 しかし、 3. については少々自信が持てない。 論文数や被引用数では確かに順調に増えつつあるのだが、 引用してくれる人は海外の著者ではなく、 国内で研究者たちが 「論文互助会」 的に相互引用しているため件数が増えているのだ、 という指摘もある。

そして 2. に至ってはまったく眉唾ものといえる。 多くの分析から、 特に科学知識に関し日本の地位が極めて低いことは明確になっているし、 英語力に関しても TOEIC か何かの平均点が近隣の韓国などと比べても低いことが知られている。 コンピュータ云々は唯一そうかも知れないと思う部分だが、 全体としてこの言明は到底信じがたい。

1. や 3. にしても、 目を覆わんばかりの状況の日本の大学で、 今後そのようなことがずっと維持できるとは期待しにくい。 小宮氏は別な個所で 「日本人は伝統的に教育熱心であり、 日本の教育は引き続き他の先進諸国に劣らぬ成果を挙げるだろう」 としている(参考文献3., p.118)。 しかし、 現在初等教育での授業時間数は先進国中最少のレベルにあり、 これが今後さらに減少することが決まっている。 今後国立大学の改革も順次行われるが、 その際画期的に国立大学への国庫負担を増やそうという話はまったく聞こえてこない。 こうした状況が積み重なれば、 3. の論文数ですら近い将来維持できなくなろうし、 1. のような質の高い学生を期待することなど到底できなくなるに違いない。

(注)…… 日経によれば、 1996年度から始まった5ヶ年計画により、 大学への国家予算等による研究開発投資は増えているのだそうだ (1995年度比36%)。 しかし、 大学の施設整備費は逆に3.3%減ったという。 この結果、 面積は増えないのに装置等が増え、 「狭い、汚い」 と問題視された大学の環境はこの5年間でさらに悪化したという。

それでも、 小宮氏の反論には多くの考慮すべき要素が含まれている。 それは、 それだけ森嶋氏の著作が不完全だということの裏返しでもある。 実は森嶋氏自身もそのことは重々承知しているようであり、 「一九九八年の現時点(引用者注) で二○五○年の日本の状態を予測するということは、 時間的には一九二九年 ---ニューヨーク株式が大暴落して世界大恐慌が始まった年--- に一九八一年を予測するのと同じことである」 (参考文献1., p.10) と述べている。 要するに、 当たらない予測に違いないということを認めているのである。

引用者注……森嶋氏の著書、 第1刷が出たのは1999年3月である。 1998年は実際の執筆時点であると思われる。

では、 それでもなぜこういう本を森嶋氏は書きたいと思ったのだろう。 この本をじっくり読んでみると、 それはどうも藤岡信勝氏や小林よしのり氏らを中心とした 「新しい歴史教科書を作る会」 の台頭などの動きに見られる日本の右傾化への強い警戒感という動機からではないかと思われるのだ。 実際、 森嶋氏はこの本の8章でかなりのページを割いてこの会を批判している。

森嶋氏は50年後を予測する方法論として 「人口史観」 (参考文献1., p.14) と称するものを持ち出している。 人口の「量」と「質」が「土台」となって社会を決めるというものだ。 森嶋氏はここで 「人口史観で一番重要な役割を演じるのは、 経済学ではなく教育学である」 と述べている。 つまりこのことを一般にわかりやすい言葉で言うならば、 「国の将来を決めるのは教育である」 という程度のことに過ぎない。 小宮氏はこの人口史観を 「非科学的概念」 と批判するが (参考文献2., p.112)、 実際には森嶋氏は正確な予測をしようという気などさらさらないのだから、 予測の手法として非科学的であっても問題はないのだろう。 森嶋氏がこの著書でいいたいことは 「日本は将来没落するような教育システムしか持っていない」 ということなのだろうからだ。

考えてみれば、 「自虐的な歴史ばかり教えていてはいけない」 などという主張が力を得るのは、 それだけ自国の力への自信が揺らいでいる証拠でもある。 それが国家の没落を意味することは文明史が証明するところだ、 という主張も別な場所で出てきているようだ。

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日本の失業問題

Unemployment in Japan

それにしても、 将来没落とは穏やかではない、 という向きもあろう。 しかし、 現実に先行きへの不安が日本経済の回復を妨げている心理的要因になっている。 家計へのせっかくの収入が、 消費に回らずに貯蓄が増えているのである。

先行き不安といってもいろいろな不安があり得るが、 なかでももっとも大きなものは職を失うことへの不安だろう。 森嶋氏は前記著書において、 失業問題は日本における職業倫理の頽廃の結果のひとつであると考え、 以下のように述べている。

こういう倫理的混乱がもたらす、 一番深刻な問題は失業問題であるだろう。 それは目下第一級の大問題の取り扱いを受けていないが、 近い将来に日本の最大の問題になるであろうと思われる。 そして日本が今までの繁栄から転げ落ちるのも、 現在の見かけではそれほど大きくない失業が、 やがて急速に雪ダルマのように拡大するからである。 日本の雇用システムは (中略) すでに西欧型の典型からかなり逸脱しているから、 失業問題も教科書的な処理では解決できない。 日本は労働市場をつくっていくことから始めねばならないが、 そのためにはいわゆる日本型雇用システムを改修ないし破壊することをしなければならない。
参考文献1., p.71)
実際、 それはすでに非常に大きな問題を起こしつつある。 失業率の数字がすでに半年以上もアメリカのそれを上回る状態が続いているし、 近い将来にそれが下がることもありそうにない。 いわゆるリストラ (英語ではほんらい「リストラクチャリング」=restructuring、 つまり業務再構築の意味だが、 日本では首切りという意味で使われている) では、 従業員を仕事も何もない部屋に押し込め、 精神的に追い詰めて 「一身上の都合により退職」 との辞表を書かせるなど、 もはや犯罪と断ずべき許しがたい行為が横行してもいる。

何よりも問題なのは、 失業というかたちでドロップアウトした人々をすくい上げる手立てが、 日本にはほとんどないことだ。

従来は、 こうした人々を出さない 「終身雇用」 というシステムが大企業等では確立、 中小企業にも順次広がりつつあったから、 ドロップアウトする人はその人が悪い、 というので何とかなったのかも知れない。 しかしそれは高率の経済成長が継続することが前提の話。 そのようなことは期待できないのだから、 そんなシステムが維持できなくなるのは当然のなり行きだった。 実際には1980年代の円高不況当時にそのシステムを捨てる決断をすべきだった、 という意見もあるくらいだ。 実際にはそれから20年以上もそれが温存され、 傷口を広く、深くした。

結果的に、 現在の日本では 「失業、 すなわち絶望」 という状況が定着しているように見える。 特に、 中高年の失業は深刻であるようだ。 前記のような犯罪的なリストラが横行する背景にも、 こうした状況があるのだろうと思う。 もちろん、 そういうことは理由のいかんを問わず許すことはできない。

このような大きな不安は即座に、 例えば治安の悪化に直結するはずである。 こうしたことへの不安があるから、 家計はサイフの紐をまったくゆるめようとせず、 景気回復の足を引っ張っているのである。

森嶋氏は、 原因として (主として経営サイドの) 倫理観の頽廃があり、 その結果としてバブルとその崩壊が起きたと考えている。 そのバブル崩壊の結果として失業問題が発生し、 社会不安を誘発しているという構図を描くことができる。

ところで、 小宮氏は参考文献3., p.105 で、 この部分に関して森嶋氏の非礼を責めている。 森嶋氏の著書 (該当部分は参考文献1., pp. 71--73) によれば、 氏は日本滞在中にこの失業問題について「建言」すべく、 「労働問題に関心を持っているある大きい経済団体の会長との会合を準備してもらった」。 ところが、 その会合が夫婦同伴の親睦会のようなものだったので、 氏は当初からイライラしていたらしい。 そして、 肝心の失業率の話になったら、 この会長氏はこう語り出したというのだ。 曰く、 「欧米諸国から比べて四・二パーセントという数字は低い。 それは日本経済が健在な証拠である」。 それだけでなく、 その会長氏は4.2%という数字をさらに分解し、 「その内の何パーセントは自発的失業で彼らは失業救済されるより、 失業を望んでいる人達だから、 本当は失業者とは言うことができないと論じ立てた」 というのだ。

これはあまりに呆れた楽観論である。 しかも、 リストラの現場で過酷な首切りが横行している実態を考慮すれば、 「本当は失業者とは言うことができない」 という言明は事実をねじ曲げており、 それが経済団体の会長の発言だと考えれば犯罪的でさえある。

ということなので、 森嶋氏は次のような行動に出た。 「日本で成功して高い地位についている人は、 どうしてこんなに自己満足しているのだろう! そう思った私は居住まいを正して畳に手をついた。 『どうも有難うございました。 私は忙しい身だからそういう話を聞きに東京まで来たのではありません。 これで失礼します。』」 これはこれでなかなかできないことだが、 イギリスの高名な大学教授というのは得てしてこんなものである。 それに、 その発言内容の反社会性を考慮すれば、 この程度のことがあってもいたしかたないのではなかろうか。

小宮氏はこれを以下のように批判する。

  1. 「話の冒頭では、 労働問題について知りたいと思って会合を頼んだと言いながら、 すぐ後に 『私は以下、 本章 (金融の荒廃) や次章 (産業の荒廃) の諸節で述べることを会長に話すために来た』 と言う。 自分が書いたことをすぐ二頁先では忘れてしまう著者の記憶力など、 頼りにならないことがよく判るだろう。」
  2. 「自分が依頼し、 そのために相手が時間を割き費用を負担した会合が不調に終わったことについて、 著者は少しも心の痛みを感じないのだろうか。」
  3. 「最近の日本の労働問題について知りたければ、 専門の学者の著作を読むべきであり、(中略) 財界人からこの種のことについて必要な知識が得られると思うのは、 非科学的であり、 学者として不見識である。」(下線部は原文では傍点つき)
これらのうち2.についてはそういう側面もあるが、 この会長の発言があまりに非常識なので割り引いて考えたいところだ。 3.はそうかも知れないが、 文献だけをたよりにすべきなのなら日本に来る必要はないともいえる。 1.は明らかに筆が滑りすぎである。 仮に会合の意図が間違って伝わっていたのが会合不調の原因だとしても、 失業率の数字を勝手に分解し、 そのある部分は 「本当は失業者とは言うことができない」 などと身勝手な解釈をするような輩であれば、 正しく伝えたところで適切なアドバイスが得られたとも思えない。 だいたい、 森嶋氏は 「労働問題について知りたいと思って会合を頼んだ」 とは書いていない。 前記した引用部分に続けて、 「私は日本滞在中に、そういう問題についての知識を集めて置きたいと思った」 ので会合を準備してもらった、 と記している。 「そういう問題」というのがどういう問題かはわからないが、 失業問題だけでなく、 それを含む日本の職業倫理に関する問題全般にわたる現状を知りたいということだったはずである。 従って、 「本章 (金融の荒廃) や次章 (産業の荒廃) の諸節で述べることを会長に話すために来た」 という森嶋氏の言明は 「自分が書いたことをすぐ二頁先では忘れてしまう」ほど 「頼りにならない」 「記憶力」 のなせる業だとは到底思えない。

脱線が長くなった。 森嶋氏の書くように、 バブル崩壊が職業倫理の頽廃 「だけ」 によって惹き起こされたものでないことは明らかだが、 森嶋氏の描いたこの経済団体会長氏のように、 あまりに無責任な経営者たちの様子をみれば、 無関係でないこともまた明らかであるように思われる。 いっぽう、 失業問題をはじめとする日本の先行きへの不安と治安との関係も同様で、 無関係ではあり得まい。 従って、 失業率の増加に伴って日本でも、 今後アメリカ並みに犯罪が増加して行くことは十分考えられる。 それが、 よく小沢一郎氏のような政治家たちがいっている 「普通の国になる」 ということの現実的な意味のひとつなのだろう。

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「大きな政府」へ動けるか?

Can Japan move to "larger government"?

もちろん、 日本が失業率の増加に対処できるシステム (失業率を増加させないシステムでも、 失業率が増加しても社会不安は増大しないシステムでも、 社会不安が増大しても犯罪は増やさないシステムでも何でもいいのだが) を持っていれば何の問題もない。 しかし、 問題は日本が戦後一貫していわゆる 「右肩上がり」 に慣れてしまっていたために、 経済は拡大するものとして社会が成立してしまっているため、 そのままでは対処が難しいからまずいわけである。

多臓器不全国家となった日本の困難は、 こうした問題への対処のため 「大手術」 が必要となるのに、 その手術に耐えるだけの体力があるか疑問視されることだろう。

失業問題の例についていえば、 これによる社会不安を抑えるためにセーフティネットの整備を急げ、 との主張が多く聞かれる。 高木はこういうことの専門家ではないが、 日本にはそれが十分ではないことくらいはわかる。 失業対策というのは以下のようなものだろう。

  1. 失業自体をなくす(職を増やす)
  2. 別な業種への再就職を支援する
  3. 失業が即座に生活困難に直結しない仕組みを作る
  4. 不当な解雇等を厳密に禁ずる
よく「ワークシェアリング」といって、 一人あたりの労働時間を短縮して雇用者数を増やす考え方があるが、 これがうまくいったという話は聞かない。 現在行われている対策で 1.に相当するものは、 唯一公共事業を増やして建設業界に雇用を増やすことなのだろう。 しかし、 その結果日本国内にはどうみても必要ないとしか思えない土木構造物があふれている。 たとえば、 昨年夏に山陰の江川に沿って走る三江線に乗っていたら、 山の中なのに線路が何度も堤防を横切るのである。 線路が堤防よりもはるかに低いため、 線路が通る場所には厳重な鋼製の扉が用意されている。 洪水時には閉じられるのだろうと思われる。 しかし、 そこはもともと深い山中で、 堤防も「こちら側」に作ってあってもその反対側はなかったりする。 家屋も堤防の両側に存在し、 いったいどこが河川敷なのかさっぱりわからないときている。 不要な土木工事というと、 吉野川堰とか諫早湾干拓とかが思い浮かぶが、 話題にならないこのような場所にある無駄のほうがはるかに大きいのではないだろうか。 結果、 いまでも非常に多くの労働者が土木・建設業界に雇用されているが、 この調子でいつまでもこうしたものを作り続けているわけにはいかない。 こうした人々はいつかはこの業界を追い出されなければならないのである。

となると、 2.の転職支援ということになるが、 これも受け皿となる雇用の創出があってはじめて成り立つ話である。 その受け皿としてベンチャー企業に期待する声が多いが、 「ベンチャー」の語源 venture は冒険とかいう意味である。 「不安解消のため冒険しなさい」 ということでは話にならない。 だいたいが、 「寄らば大樹の蔭」 があまりにも徹底され過ぎ、 冒険心を失っているのが日本の現在の病状でもある。 これでは肺炎患者にマラソンを勧めるようなものである。

3. は失業保険の充実というようなことなのだろうが、 現在の失業保険程度のものでも、 受給しようとして役所等にいくと非常に不愉快な思いをするという。 保険の給付を受けるのは市民の当然の権利だと思うのだが。 一方、 そのわりには臨時雇用の労働者をわざと一時的に解雇してその間給付を受ける、 などという不正が摘発もされずに放置されていたりもするのだから話にならない。

さいごの4.も、 リストラという呼び名で平然と行われているのはよく知られるところとなった。 日本もこれから年功序列賃金のような 「平和な」 システムから競争的なシステムに移行するとされているが、 競争には適正なルールが必要である。 犯罪的リストラなどが横行し、 法治国家の体をなさない状態では、 このような移行は不幸と社会不安と治安の崩壊以外を呼ばないだろう。

確かに日本ほど法律無視の甚だしい国は先進国には例を見ない。 憲法だって無視されている国なのであるから当然と言えば当然ではあるのだが。 ちょうどゴールデンウィークでウェブの更新をサボっている間に、 森首相が「神の国」発言で一発かましてくれた。

「教育勅語にもいいところがあった」 とぶった直後のことだっただけにインパクトは大きかったようだ。 「憲法無視だ」 との声があがり、 内閣支持率は急落。 これで近々あるはずの総選挙ががぜん面白くなってきた。 この発言、 「憲法無視」 なのかどうか議論する気にもならない馬鹿馬鹿しいものだが、 憲法について森氏が 「何らの考慮も払ってない」 ということだけは明確になったと考えられる。 いま国会では憲法調査会なるものが活動しているが、 こんな輩が憲法について議論したところでなんの意味があろうか。 もっとも、 森首相は他のすべてのこと、 故・小渕前首相がいかに綱渡りの政権運営をしてきたかといった政治屋 (政治「家」ではない) として理解していなければならない最低限のことすらわかっていないわけで、 要するに無能力。 「親を大事にしろ」 ということすら自分の言葉では言えずに、 教育勅語のような既存の権威にすがりつく、 とびきり情けないオヤジなのである。 こんなやつに教育を云々されたくないというものだ。 どうして自民党ではこういう人が幹事長をつとめることができるのだろうか?

こうした状況を廃し、 真実の意味での 「法治国家」 化をはかることにこそ日本の進むべき道があると思える。 このことは緊急の課題の多い日本では先送りされがちであるが、 実はまず緊急に行うべきこととしても極めて意義が高いのだ。

というのは、 法治国家であり得るためには法律を 「守らせる」 力が必要だ。 そのためには、 厳しい調査や評価を常に行い、 法律違反を厳しくチェックする態勢を作る必要がある。 それには人手が必要である。 つまり 「大きな政府」 を作る必要があるということだからだ。

例えば日比谷線事故で話題になっている鉄道事故の調査体制にしても、 金沢工大の永瀬教授は 「専属の調査員」 の必要性を説いている。 事故の現場は凄惨な修羅場であり、 そこに事故直後何をおいても駆け付け、 粘り強い調査を行い中立な報告を出せるためには、 現在の運輸省の事故調のように鉄道関係の専門家が片手間で行うのでは限界があるというのだ。 ということは、 そのための要員を増やすことが必要である。

小学校・中学校など初等教育の現場でもいろいろな問題が起きているのに、 最近も 「40人の子供たちが集まることで社会性が身につく」 とかいうわけのわからない理由で少人数学級化が見送られた。 しかし、 少人数化は教育現場で起きている問題を解決するには是非とも必要であり、 そのための要員増は許容されるべきなのだ。

民主主義はコストのかかるシステムであるといわれる。 政権交代のたびに政策が変更され、 その際には無視できないコストが払われる。 しかし、 日本はいままでこうした民主主義のコストを払わなさすぎたのではないか。 それが、 結果的にルール無視とそれによる腐敗、 頽廃の原因となったといえると思う。 そのような腐敗、 頽廃を防ぐためには、 こうして公務員の数が増大するのはこれはもうやむを得ない。 それは現在国民がかかえている不安を解くために役立つし、 何より雇用を直接増加させる。 長期的には日本の信頼回復にもつながり、 それが国の勢いの回復にもつながるだろう。

こうしたかたちで 「大きな政府」 を許容できるかどうか。 そこにいま日本の真価が問われていると思えてならない。

ちなみに、 もっとも問題がありそうなのは警察である。 最近のいろいろな事件で警察の対応が悪いことが問題視されているが、 これも警察に人間が少なすぎることが原因の一端であろう。 もちろん、 現在のように不祥事を繰り返す警察では単純に組織の肥大化だけを図るのは危険で、 何らかの 「セーフティネット」 を設けておかないと国民が悲劇に見舞われるだろう。 そうしたものの構築を一から始めなければならないところに 「多臓器不全国家ニッポン」 の不幸があるのだが…。


参考文献

  1. 森嶋 通夫: 「なぜ日本は没落するか」, 岩波書店 (1999)
  2. 小宮 隆太郎: 「森嶋通夫著『なぜ日本は没落するか』の批判的書評 I」, 論争東洋経済, 1999年11月号, 22 (1999)
  3. 小宮 隆太郎: 「日本経済は没落か繁栄か 森嶋通夫著『なぜ日本は没落するか』の批判的書評 II」, 論争東洋経済, 2000年1月号, 23 (2000)

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