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2001. 2. 10. / February 10, 2001

電力危機、安全、市場原理主義
Electricity Crisis, Security and Market Fundamentalism

目次 / Contents

カリフォルニア電力危機

Electricity crisis in California

The electricity crisis in California has long been expected to come; there were many signs that were clearly overlooked. The authorities concerned seems to have had enough knowledge about the electricity and its characteristics, which are quite different from normal commodities.
アメリカ合衆国・カリフォルニア州のいわゆる 「電力危機」 のことは、 輪番停電が実施されたころから日本の各新聞もとりあげるようになった。 主要5紙の運営するウェブ・サイトのなかでは NIKKEI NET がもっとも早くから取り上げていたようである。 昨年12月末ころから、 金融市場への影響を懸念してFRBなどが動いていたと報じている。 だが、 FRBが動いたところで、 1月に入ってからの停電という事態を避けることなどできようはずもなかった。

日本の主要な新聞を見ていると、 事態は突然起こったことのように思われるかも知れない。 しかし、 この事態に至るまでにはかなり前から伏線があった。

電力を安定的に供給するというのは案外面倒なものである。 ガスや水道などだと、 圧力を下げればいわば 「てきとう」 に消費量が減ってくれるから楽である。 しかし、 電気の場合はガスや水道の 「圧力」 に相当する 「電圧」 はある範囲内に収めることになっている。 水道局などから 「水圧が減ります」 というお知らせはあっても、 電力会社から 「電圧が減ります」 というお知らせを受けた経験は誰もないだろう。 従って、 今回のように供給される電力がそもそも足りなくなれば、 系統は全体がダウンすることになる。

例えば東京電力の最大電力は6千万kW(60GW)程度である。 「東京電力に100万kWの電力を売ります」 という人が60人くらいいると、 真夏でも十分な電力が供給できる計算だ。 しかし、 仮にこの60人が朝から晩までのべつ100万kWを発電し続けたらどうなるか。 行き場のなくなった電力は誰かが抵抗器か何かで無駄に消費するほかない。 そこで、 誰かが負荷の増減を見計らいつつ 「あんたの発電所は止めなさい」 「あんたの発電所を動かしなさい」 と指令を出す必要がある (給電指令というやつだ)。

問題はそれだけでは済まない。 例えば、 火力発電の場合はボイラーでお湯を沸かして蒸気を作り、 それでタービンを回して発電するわけだが、 完全に止めてある (要するにお湯が沸いてない) 状態からタービンが回るまでには数時間くらいかかるだろう。 従って、 発電機や送電線の突発的な故障があったとき、 止めてある発電所がさっと動かせないと困る。 従って、 一部のユニットは発電してないにもかかわらずお湯だけは沸かしておいて、 何かあったら瞬時に動かせるように準備しておく (瞬動予備力)。

電源にはいろいろ特性がある。 燃料コストが安いが、 発電量は時間を問わず一定にしておきたい原子力。 お湯を沸かすのに多少時間がかかる火力。 調整をすばやく行うことができ、 揚水発電というかたちでエネルギー貯蔵もできる水力。 こういうのを組み合わせ、 瞬時瞬時の電力の生産と消費のバランスをとる。

これ以外にも、 異なる地域にある発電所同士が 「押したり引いたり」 を相互にやって地域間で振動が起きないかとか、 電力は足りているのに電圧が不安定になってしまうような現象は起きないかとか (1987年に東京西部で起きた大停電はこれが原因だった)、 いろいろなことを気にしながら、 ようやく平衡が保たれているのが電力系統である。 ぴょこぴょこ変化されるのはすごくイヤなので、 もし太陽光や風力のような電源を電力会社が嫌っているように見えるとすれば、 その理由の一端は気候などによる変化の激しさだったりもする (もちろん、 現状ではコストも高いわけだが)。

カリフォルニアでは、 3年くらい前からアンシラリーサービス (瞬動予備力など、 系統の安定化のために必要だが電力そのものでないもの) の価格が高騰するなど、 今回の事態に至る前にいくつもの問題点が明らかになっていた。 それなのに、 なぜ事態がここまで悪化する前に手が打てなかったか。 不思議というほかないが、 電力という商品の特殊性を十分理解していなかったせいなのであろう。

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市場は「全能の神」ではないけれど…

Although the market is not "God almighty"...

The emergence of this Californian crisis led to the criticism against "market fundamentalism". It is true that the "liberalisation" of electric power market has led to this crisis. However, this is not the case where we should speak of it. The problem is simple; insufficient supply. The market mechanism worked right, and it never cares about the outcome, which is simply undesirable. If people want secure supply of electricity, they should have another way; and if it works, then the market mechanism can coexist happily with enough secure power supply.
これを受けて、 一部の論者からは市場原理主義批判が飛び出している。 しかし、 現実に電力自由化で問題が起きていない国や地域も数多い。 だから、 市場に任せたら必ず危ないことになる、 というのは当たっていない。

今回の場合、 問題は 「供給力が足りない」 という一点に尽きるように思われる。

例えば、 現在野菜はほとんど市場メカニズムのみで価格が決まっていて、 「豊作貧乏」 などという状況が今でも稀ならず存在すると聞く。 今年のように天候不順で不作だったりすると、 価格がぽんと跳ね上がることになる。 高くなったとき、 いったい野菜を食べていた人はいまどうしているのか気になるが、 野菜以外のものを食べるとか、 高くても輸入物を食べるとかしているのだろう。

しかし、 食糧がすべて市場メカニズムで価格が定められているときに、 全人口の半分しか養えないような量の食糧しか確保できない状況になったとしたら、 いったい何が起こるだろうか。

  1. 市場メカニズムの作用により、食糧価格が非常に上昇する。
  2. その結果、 収入レベルの高さに応じて人々のとる栄養は不十分になる。 収入レベルの低い方の人は餓死する。
といったことになるのだろう。

いうまでもなく、 2. のような事態は非常によくない。 しかし、 このような事態は 1. の市場メカニズムによる価格上昇のせいではあり得ない。 根本原因は、 あくまで供給力不足なのである。

カリフォルニアの状況を見て 「市場原理主義」 批判に走るひとは、 逆に自分自身が市場原理主義の亡霊にとらわれているといえるのかも知れない。 カリフォルニアでも、 電力自由化によって 「安い電気を使えるようになる」 と勝手な期待が先行した。 確かに、 市場メカニズムの導入により、 競争による効率化へのインセンティブは与えられる。

しかし、 よく考えてみれば、 市場メカニズムというのは需要と供給の関係から価格を決めるだけのものだ。 従って、 これは勝手な期待であるに過ぎない。 安い電気が使えるようになるためには、 相互に競争しあう複数の事業者から、 十分な量の電力が供給されなければならない。

価格決定以外の部分では、 市場は 「全能の神」 ではない。 食糧の例で述べたような危険な状態 (今回のカリフォルニア電力危機はこれと相似といえよう) を招くかどうかは、 市場メカニズム以外のしくみによって定まることである。 その意味では、 カリフォルニアでも市場は 「きちんと機能していた」 という言い方ができる。 市場メカニズムの与り知らぬことまで、 市場の効果として期待する方が誤りだ。

つまり、 市場メカニズムの関与できる範囲を超えた現象が起きたことをとらえて 「市場原理主義の敗北」 を唱える、 という主張のあり方は、 「関与できる範囲」 を超えて市場メカニズムに過剰な期待を寄せる市場原理主義そのものと、 単に表裏一体であるに過ぎないということになる。

カリフォルニアの件に関連して、 電気事業連合会会長で中部電力社長の太田宏次氏が 「行きすぎた自由化は供給不安を招くと言ってきたことが現実になった」 と発言していることが報じられている。 確かに、 この発言は自由化への慎重論と受け取るのがふつうだろうが、 しかし、 逆に 「行きすぎなければよい」 と読むことも可能である。 問題は、 どこまでやれば行き過ぎでないかを判断することが容易でないことだろう。 日本でも昨年3月から電力小売り部分自由化が行われたが、 その枠組みは3年後に見直されることになっている。 太田氏はこのことにも触れ、 「制度も3年後でなく、 10年ぐらいかけてじっくり検討すべきだ」 としている。 これは、 「行き過ぎ」 か否かの判断に時間がかかるという主張であろう。

カリフォルニアのケースだって、 アンシラリーサービス価格高騰の段階で何らかの手を打っておけばよかった、 と今なら思う。 しかし、 そういうのを後知恵というのだ、 と関係者はいうに違いない。 恐らく、 価格高騰が現に起きていることはわかっていても、 その抑制のための仕組みを自由化の枠組みに作り込むことが困難だったのだろう。

電気工学的な仕組みだって異常な複雑さなのに、 その上に市場メカニズムなどというさらに複雑なものをとりつけ、 それでもうまく働くようなシステムを設計する。 それが難しいことくらい誰にでもわかっていただけるだろう。

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安全学の観点から

From the point of view of "Securology"

The matter can be viewed from the viewpoint of "Securology" (I do not know how to translate this concept into English; I intended to say "Anzen-Gaku" (Anzen = security, Gaku = study) --- this is what Prof Murakami Yoichiro in Japan proposes in his book so named. He says people tend to:
  1. underestimate the risks of an accident that is very rare, but brings very severe outcome once it really happens, and
  2. underestimate the necessity of safety countermeasures against rare but severe accidents after experiencing many small incidents in which such countermeasures were not necessary.
こうした議論において必ず見られるのが、 電力の供給不安のように当面は顕在化しにくい問題を、 それに直面することを余儀なくされるまで放っておく傾向である。

村上陽一郎氏は、 「安全学」という著書 (参考文献1.) の第4章で、 1997年ころ?に起きたインドネシア政治危機をめぐり、 当時の橋本首相が邦人救出のために、 自衛隊輸送機をタイに派遣した一件を取り上げている。 このとき、 「あの処置は無駄だった」 という異議が数多くマスコミに登場したらしいが、 村上氏は 「このような批判だけは避けてほしいと考えた」 という。 この理由は、 そうした批判が 「何の役にも立たないばかりか、 むしろ将来にわたって大きなマイナスとなるからである」 とし、 その理由を次のように2点に要約している。

  1. 極めて頻度が低いが、 起きたときの被害が深刻な災害について、 その想定を過小評価してしまう。
  2. 安全対策が空振りに終わったとき、 それに慣れる結果として安全対策それ自体が不要と考えてしまう。
これらのうち、 1. の典型例は地震対策のようなものかも知れない。 1995年兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)のあとにこんな話を聞いた。 神戸でも地震災害があり得ると聞いて、 自宅の基礎を岩盤までしっかり打った家を作った人がいた。 無駄じゃないか、 とせせら笑う人が多かったが、 結果はもちろん言うまでもないだろう。

東京の営団地下鉄は、 この地震があるまで 「地下鉄は地震には強い」 と宣伝してきた。 実際、 大都市を襲ったいくつかの大地震でも地下鉄は無傷かそれに近い状態だった (メキシコ大地震の際も地下鉄は10時間程度の後には運転再開したと聞いている)。 しかし、 神戸でいくつかの地下鉄駅が崩壊したのをみて、 迷わず補強工事を行った。 神戸のような激しい地震動を伴う地震はそうそう起きないと思うのだが、 それでも対策をとったわけである。

一方、村上氏は、 2. の例としてオオカミ少年の例えを出していた。 この例え話から、 「人間は日頃の信用が大事」 という教訓のほかに 「人間は警告に慣れやすい」 という教訓も引き出すことができる、 と村上氏は述べる。

この話では、 オオカミ少年は確か 「オオカミが来た」 とウソをついていたはずである。 ウソはよくないだけのことなので、 少し話を変形し、 少年を 「オオカミ襲来予測システム」 に置き換えると、 これはまさに安全システムの設計に関する根本的な問題点をついたお話、 ということになる。 無駄な警報は、 確かに安全に逆行する要素を持っている。 このことは、 火災報知器の誤報に業を煮やして電源を切っていたため犠牲者が増えた、 などというケースが跡を絶たないことからもわかろうというものだ。

さて、 似たようなこととして、 安全をはかるべく 「念のため」 と称していろいろやったりつけたりすることがよくある。

村上氏の議論に従えば、 こういう批判はよろしくないのかも知れない。 しかし、 「念のため」 とかいう種類のものごとがあまりに多いと、 かえって関係者がその意義を疑ってしまう結果、 不安全になることもあるのではないだろうか。

鉄道の例で言えば、 昨年3月に日比谷線で脱線事故が起きた。 そのときには、 直通運転先の東急線と営団とで脱線防止ガード等の設置基準が違うことが、 批判の対象とされた。 東急は、 1986年の自線内での脱線事故の対策として、 ガード設置範囲の大幅拡大を図っている。 営団関係者がそれを知らないはずはなかったと思うが、 「念のため行われたことであろう」 と考えたのかも知れない。

事故のあと精力的に行われた検討会の成果として、 「推定脱線係数比」 なる考え方が導入されたそうだが、 このことを紹介 (参考文献2.) された西野保行氏は 「判断基準として数値を用いることは結構であるが、 計算結果はいろいろの仮定条件がそのもとにあるのであるから、 念のため必ずしも設置が必要ない個所に設置したからといって、 検査や監査の対象として無駄使いであると指摘するようなことがないように望む」 と述べている。 しかし、 脱線防止ガードがそんなに安全なら、 直線・曲線問わずどこでもつければいい。 恐らくは必ずしもそうはいえないのだと思う。 そういう前提のもとで 「ここはつける」 「ここはつけない」 と判断したのだから、 その判断の根拠は数字でないにしても風化させずに伝えていく必要があろう。

あるいは、 山手線新大久保駅で、 線路に落ちた1人を助けようとして2人 (ひとりは横浜の方、 もうひとりは韓国からの留学生) が線路におり、 3人とも亡くなった、 という事件が先月話題になった。 これに関連して思うのは、 最近プラットホームに置かれている点字ブロックである。 これの設置は、 目の不自由な方には重要な改善だったとは思うが、 点字ブロックがホーム端に置かれるようになると同時に、 アナウンスで従来 「白線の内側に下がれ」 といっていたのが 「黄色い線の内側に下がれ」 に変更になった。 多くの場合、 白いタイルやペンキで描かれた白線は、 連続する点字ブロックで形作られた黄色い線に比べるとホームの外側にあった。 「白線の内側」 から 「黄色い線の内側」 に変更される過程で、 限界線はホームの内側に数10cmも食い込むことになったのである。 白線外歩行は前から行われてはいたけれど、 このような変更はやはり警告無視へのさらなる動機を乗客に与えることになる、 と高木は思う。

日本の自動車交通における制限速度無視も似たような側面がある。 多分念のために低めの速度標識をつけてあるのだと思うが、 結局速度標識の無視につながり、 かえって不安全ではないだろうか。 60km/h制限なのにほとんどの車が100km/hで突っ走る首都高速を走るたび、 そう思わずにいられない。

村上氏が 「このような批判だけは避けてほしいと考えた」 と著書 「安全学」 (参考文献1.) で述べたような批判は、 しかし多くの場面で繰り返し行われてしまうことでもある。 村上氏もこう述べている。

実際のところ、民間の営利企業でも、 安全対策は、何事も起こらなくて当たり前、つまり、 冒頭に触れたような自衛隊機の派遣の場合と同じで、 「無駄」に見えるために、 どこか「消極的」な意義しか認められない傾向がある。 必要だからこそ執られた措置も、 それで何事もなく時間が経過すると、 いつの間にか「不必要」とまではいかなくとも、 「なくても大丈夫」 ということになりがちである。 顧客を増やすとか、 売上げを伸ばす、 といった「積極的」な行為に比べて、 社内での評価も、決して高いとは言えない。

皮肉なことに、あってはならない事故が起きて、 そのときだけ、安全対策の部局に陽が当たる。 しかも、そのときは、 批判と非難の嵐を覚悟しなければならない。

参考文献1., 第4章, p. 74より引用)

この意味するところは簡単。 安全は、 市場によっては守られないということだ。 電力の供給も、 このコンテクストで語ることが可能だろう。 電力の供給が滞って社会が困っても市場には関係ない。 電力の供給が大事なら、 市場以外のメカニズムで守ってやらなければダメということだ。

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自動車、あるいは「国のために命を」

Automobiles, or "life for the nation"

Concerning safety of railways, there were concerns against future degradation of security when former Japanese National Railways was to be "privatised" (in reality it is only reorganisation into stock companies). So far, the safety concerns for the railways seem to have been wrong; however, the cost competitions are still becoming severer, and the fact that the level of safety of railways were kept extremely high, we will see increased number of accidents in the near future. It seems that there are not many things we can do to avoid this. This fact reminds me of the relationship between an individual citizen and a nation; what we are required might be to become "adult" in this relationship. I have found a preliminary thoughts on this matter in an essay by a motor journalist Mr Tokudaiji Aritsune, published last year.

JR東日本の山之内前会長が最近 「なぜ起こる鉄道事故」 (参考文献3.) という著書を出版された。 非常に面白い内容で、 全体として一読を強くお勧めできる本である。 しかし、 「国鉄を民営化するときには 『国鉄を民営化すると利益優先に走り、 安全性が低下する』 という意見があった」が 「事実は反対であった」 と山之内氏の持論を展開するあたり (前掲書, p. 263) は、 今までの統計的事実としてはそうなのだろうが、 今後ともそうであり続けるか、 といわれれば疑問を呈さざるを得ない。

山之内氏がこのようなことを強調するのは、 国鉄改革当時そのような言説が民営化潰しのために使われた、 という実績があるからだ。 しかし、 例えば営団地下鉄が日比谷線で脱線事故を起こした背景に、 車両の保守・整備を行う工場などでの急速な人員削減があるのはほぼ間違いない。 むろん、 「人員削減」→「手抜き」→「事故」 というような、 よくいわれるような単純な因果関係ではない。 文学的な表現になるが、 人員削減の結果、 車両やシステムとじっくり向き合う時間がなくなり、 その結果として安全の根幹にある思想が抜け落ちたための事故である、 このような人員削減は、 世論の特殊法人批判も背景にあるが、 コスト削減そして民営化を視野にいれた企業としての行動の結果である。

昨年末には、 福井の京福電鉄で、 基礎ブレーキ装置が老朽化で折れたため、 永平寺線の電車が下り勾配をノーブレーキで暴走する正面衝突事故があった。 これも、 限界に達したコスト削減のひとつの結果とみることができる。

厳しい競争の時代に入り、 いままで規制業種だった鉄道や電力といった分野でのコスト競争が進めば、 従来はがんじがらめの安全装置で守られていたシステムを、 何らかの形ででもスリムにしてゆく必要が生じる。 今まで、 日本ではこれらの業界が高コストで高レベルの安全を提供してきたが、 今後の変化の過程でこうした種類の 「上手の手から水が漏れる」 ような事故は一時的に増える可能性があろう。

では、 いったいどうすればいいのか。

どうも具体的な提言ができないのである。 何しろ、 安全にかかわる問題 (つまり事故) というのは、 非常に生起確率の低いものだからだ。

「あなたは、 99%の確率できちんと飛ぶ飛行機に乗る気になりますか?」 という例題は、 この問題を具体的にイメージしてもらうのによいと思う。 言葉のあやというやつかも知れないが、 現実にこの数字どおり厳密にそうだとしたら、 まあ誰も乗る気にはならないだろう。 羽田から一日何便が飛び立っているか考えてみればすぐにわかる。 先日の日航機ニアミスみたいなことだって大騒ぎだったのに、 それが国内だけで毎日10件以上起きることになるだろうからだ。

参考文献3.は井口雅一氏 (東大名誉教授) の言葉を引用し、 1時間のうちに1万人中1人が亡くなる危険がある行為は 「忌避領域」 で、 ふつうの人はやりたがらない、 としている。 軍用航空機の戦場における死亡率がこのくらいだそうだ。 よく「万が一」という表現をするが、 これを文字通り解釈すれば10-4、 あるいは10のマイナス4乗となるから、 「万が一」 は1時間あたりの値としては全く受け入れられないことになる。

さらに、 1時間のうちに100万〜1000万人中1人が亡くなる危険がある行為 (確率でいうと10-6〜10-7) は「注意領域」であり、 こうした行為についてはやめないものの注意しながら行動する。 自動車の運転がこのレベルだそうだ。 そして、 1時間のうちに1億人に1人が死ぬ程度の確率 (10-8) まで確率が下がると、 もはや人々は安全について気にしなくなるのだそうだ。 ちなみに日本の鉄道のこの10年間の実績は2.9×10-8で、 安全領域ぎりぎりのセン。 列車に乗っていて事故にあい、 死亡する確率に限定すれば、 10-10のオーダであるらしい。

現在がこういう状況なわけだから、 コストをより重視する方向に向かえば事故が増えるのはほとんどやむを得ない。

昨年は日比谷線事故などで鉄道関係者に大きな衝撃が走った年であったから、 この種の事故がらみの本もいくつか緊急出版されている。 山之内氏 (参考文献3.) 以外に、 久保田博氏も 「鉄道重大事故の歴史」 (参考文献4.) を出版している。

山之内氏の著書が体験を綴った読み物であるのに対し、 この久保田氏の著書は資料集というかたちにまとめられているから、 その道の方以外には読みにくい本であろう。 しかし、 その最終章で事故の分析をふまえて 「より高い保安水準」 をめざすにはどうしたらよいか、 短い考察がつけられている。 要約するとこんなところだろうか:

  1. 事故の人的要因として、 当事者の実務の知識の不足、 未熟、 未経験などがよくあげられるが、 体験上当事者のモラール (士気、やる気) が基盤にあるように思われる。 モラールを高め維持することが、 人的要因の対策として重要である。
  2. 保安対策の投資支出は、 多くの犠牲者が出て初めて具体的対策が採られている。
  3. 表に出ない小事故・中事故の解析も行い、 事故の可能性をすべて予想して、 保安が輸送の絶対条件として緩急順の対策を立て、 推進する必要がある。
  4. 事故は好ましくないため、 社史等で記録しないような例も多いが、 現在の鉄道の高い保安度の基礎となっている事故の教訓を風化させないためにも、 記録や経過を確実に継承する必要がある。
山之内氏の著書でもそんなに違うことを言っているわけではないのだが、 以上のうち 1. に関して 「新幹線が事故がないのはなぜか?」 という設問を立てて考察している。
それは在来線よりも人間の指導と訓練が徹底しているからなのか? 多分そうではないだろう。 安全システムがしっかりしているからである。

こういう見方をすると 「安全の最後の決め手はシステム」 ということになる。 果たしてどちらか?

マンとマシーンの問題はむずかしい。 私はやはり 「最後の決め手は人間だ」 と思う。 しかし、 それが時として安易な精神論に陥りやすいことを恐れるのである。

参考文献3., p. 272より引用)

全体に小気味良いリズムで書き進められており楽しい読み物なのだが (内容が内容だけに読んで笑えるとかいうことはないが、 知的な楽しさというふうにとらえていただきたい)、 このあたりの考察になるととたんに歯切れが悪くなる。 現実に鉄道を運行してこられた方としての苦悩のあらわれと読みたい。

山之内氏は最後に 「逆説的になるが、 実際に事故や失敗をした経験の方が、 百の説教よりも効果がある。 /(中略) 運転士に自由にさせるが、 本当に危なくなったらシステムが護る」 というほうがよい、 というお考えを披瀝している。 ダブル・チェックというわけだが、 運転士のミスとシステムの「穴」とがたまたま重なってしまう不幸は、 低い確率でも起きる懸念を消すことができない。 山之内氏は、 「安全対策に終わりはない。 そしてビジョンと哲学も必要なのである。 つまるところ、 安全はトップマネージメントの問題なのである」 という言葉で著書を締めくくっている。

トップマネージメントということは、 どういうリーダシップをもって会社が引っ張られるか、 ということだろうが、 リーダというのは部下がいて作られるものでもあると考えれば、 それは実は我々全体の問題と考えてもよいのかも知れない。 というのは、 リーダたちが持っている哲学にしろビジョンにしろ、 リーダ以外の我々の考え方を反映したものにならざるを得ないからだ。

再び村上氏の著書 「安全学」 (参考文献1.) に戻ろう。 村上氏は、 失敗の実例の重要性という文脈にあって、 「ミスを道徳的悪と見なし、 それを犯した人間を攻撃することは、 失敗の実例を将来に生かす途を閉ざすことになるということは、 いくら強調してもし過ぎることはない」 と述べる(p. 79)。 「もっと注意深く行動せよ、 という叱責は、 無論必要ではあろうが、 ことをそれだけで終わらせることは、 システムの安全にとっては、 何の役にも立たないばかりか、 ほとんど自殺行為に等しい」 (p. 80)とも。 ところが、 我々が日常目にする報道などのほとんどは、 悲しいことにその 「自殺行為に等しい」 レベルに留まっている。 それは報道機関が悪いという言い方もできるが、 そういう報道を求めてしまう我々側の問題としても、 とらえ直す必要があるのではないか。

昨年来何度も繰り返されてきた企業の不祥事…… 雪印事件、 三菱自動車のクレーム隠し事件、 ブリジストン・ファイアストンの一件などなど。 最近、 ニアミスでどたばたした日本航空というのも加わった。 あるいは、 支持率が異様に低い森総理がいつまでも首相の座に居座る、 情けない日本政界というのもあった。 こうしたリーダシップの不在状況が、 実は我々がリーダシップを叩き壊しているためだ、 という言われ方をすることがあるが、 そういう側面は確かにあるな、 と最近思い、反省しているところである。

昨年、 車マニア向け雑誌 「ベストカー」 で、 徳大寺有恒氏が連載記事で気になることを書いていた (参考文献5.)。 スバルの高出力乗用車 「インプレッサWRXターボ」 のパワーに圧倒された60歳男性読者が、 10年来の三菱党として最近の 「ランサーセディア」 にも魅力を感じつつ、 「私にとっては最後のクルマ」 をどっちにするかで迷っている葉書への返答であった。 ちなみに氏のお勧めはランサーセディアだ。

その中で氏は例の事件に触れ、 日本社会は、 「表」(清) の社会にも必ず 「裏」(濁) が存在するのに、 徹底した大衆社会の日本はその 「裏」(濁) を認めないという子供っぽさがあり、 「三菱自動車もこの子供社会にやられたといえます」 と述べる。 もっとも、 そういうことだとするとアメリカ合衆国もかなりひどい 「子供社会」 という部分を持っているといえる。 徳大寺氏も、 「現在の世界に大人社会があるだろうかといえば、 イギリス以外にはない」 という言い方をしている。

そして、 そういう言明の後に続けて、 いささか唐突にこんなことが述べられる。

話変わって、 果たして日本には、 貧乏になった日本を雄々しく認めていく人間がどのくらいいるでしょうか。 貧乏も受け入れることには勇気がいる。 その勇気が現在の日本人に残っているでしょうか。 別に他人のことはいい。 自分はというとはなはだお寒いのです。

これは自動車の問題を超えています。 CO2の問題も超えています。 現在の日本に必要なのは勇気ですが、 この勇気、 いうは易く行なうは難しです。 もちろん、 私もその勇気があるかどうか疑わしい。 しかし、 この勇気があってこそ国が語れるのです。

今は苦しと這う。 国家のために命を預け出さずともよいが、 私は国民一人ひとりにその覚悟はあったほうがいいと考えます。 しかし、 私は断じて右ではない。 ここのところをわかってもらえるかどうか自信がない。

参考文献5. より引用)

唐突に出てきた文章でもあり、 ここでいわれている国家とは何かなどいまひとつわかりにくい部分がある。 しかし、 三菱自動車のような、 国の経済全体を左右しかねない大企業が作り出すクルマという商品。 それを商売の糧とし、 また愛してもいる徳大寺氏ご自身の思い。 さらにはその車が、 安全性の観点からは 「注意領域」 にあり (参考文献3.)、 日夜人を殺し続けているという現実。 こうしたことをつなげて考えると、 「断じて右ではない」 という氏がこんなことを言い出す理由がおぼろげに見えてくる気がする。

考えてみれば、 我々は自動車の安全をなぜこうも軽視できるのか不思議になる。 個人がやっていることといえば、 事実上 「任意保険に加入する」 以外にないではないか。 みんな 「自分だけは大丈夫」 と思って車を運転している。 しかし、 安全学という見方からすれば最悪の考え方だ。 それでも、 その最悪のものに依って社会が成り立っている、 という現実も我々の思考の中に含める必要があること (しかし、 戦後生れの我々はそのことを少々避けて通ってきたこと) は、 ほぼ間違いない。

エネルギー問題。 食糧自給率。 地震などの大規模災害。 日本の豊かな、 幸せな暮しは、 実に危うい基盤の上に成り立っている。 いきなりは無理かも知れないけれど、 日本ももう少し 「大人社会」 に近づく努力をするべきだ、 というコンセンサスだけはできていると思う。 機密費流用問題で 「真相を明らかにしろ」 だの 「機密費減額を」 だのと政治家が主張しているようなレベルでは、 途は遠いと思わずにいられないが…

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参考文献 / References

書籍等の場合、 お勧め度を星の数(3個=満点)で表しています。
  1. 村上: 「安全学」, 青土社 (1998)(★★★)
  2. 西野: 「時評・鉄道&鉄道趣味 [3]」, 鉄道ピクトリアル, 51, 3, pp. 114--116, 電気車研究会 (2001)
  3. 山之内: 「なぜ起こる鉄道事故」, 東京新聞出版局 (2000)(★★★)
  4. 久保田: 「鉄道重大事故の歴史」, グランプリ出版 (2000)(★★)
  5. 徳大寺: 「俺と疾れ!! 2000 子供社会と三菱と」, ベストカー, 23, 24, pp. 164--165, 三推社 / 講談社 (2001年11月26日)

更新履歴 / Changes

  • 2001. 2. 18: 英文アブストラクト追加
    18 February 2001: English abstract added

ウェブマガジン第23号 / Web magazine No. 23:
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