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2001. 8. 12. / 12 August 2001

告別の空へ
The Flights of Valediction

 
 僕は、空港に向かっている。
 そう単純化すれば、確かにそれは今までの何回かの経験と同じ出来事に過ぎない。
 だが、この旅は、間違いなく違う旅だ。
 例えば、僕はいまタクシーに、ひとの運転する車に乗っている。最近は、空港までは自動車で行くのが常だった。十年ほどを僕の運転とともに過ごした車は、これからしばらくこの車庫の飾りとして静かな生活を送ることになる。処分をためらったからだ。
 今回持ち歩くのは、初めての海外渡航のころ購入した、巨大なスーツケースだ。旅慣れたひとの荷物のように、過去の何回かの渡航の痕跡がべたべたと貼り付けられた外観は、ややみすぼらしくはあったけれど、確かに僕のお気に入りでもあった。
 しかし、旅慣れて来るにつれ、この巨大さが耐えられなくなってきた。小さな荷物でも海外に出ることはできる。だから、最近はしまわれたままだった。それを今回改めて取り出したのは、単に荷物が入りきらなかったからだ。それだけの荷物が必要な旅でもあるのだ、と考えてみる。
 では、この旅の、行き着く先に待っているものは、何なのだろうか?
 そう考えてみて、吹き出したくなった。なんだ、そんな疑問か!
 わからないから、旅をするんじゃないか。
 ふうっと息をついてみる。もう一度、自分に向かって言い聞かせる。わからないといったって、大差はないさ! 少なくとも、特別なことじゃない。そして、手に持った鞄を探り、中から航空券を取り出す。券面を確認する。初めて手にする、片道だけの航空券だ。帰りはいつになるかわからない。そもそも帰ってくるかどうかもわからない。
 しばらくそうしたのち、僕は券面から目を離し、目を閉じて、もういちど想像する。今回も、きっといつもと同じ旅。きっとそうさ。
 そして、「いつもと同じ」なら脳裏に浮かぶはずの、あの情景を、もう一度記憶から取り出し、反芻してみる。

★  ★  ★  ★  ★

 その日、祖母の棺を載せた車は、コンクリートの垂直な堤防に沿って北に向かって走っていた。僕も含め、何台かの車がそれに続き、葬列をなした。堤防に覆い隠された、暗い道だった。葬列は、いくつもの橋を下から見上げながら、ゆっくりと進んだ。
 川の合流点にさしかかると、道は堤防上までレベルをあげ、複雑なルートをとりはじめた。いくつもの橋を渡った。大きな橋のアーチが、門のように我々を出迎えた。
 そうしてたどり着いた先で、祖母の顔を最後に見る機会があった。安らかな死に顔であった、と書いてよいだろう。僕の母、そして叔父叔母たちが涙を流した。それが祖母の顔を見る最後となるわけだった。棺が最終的に閉じられ、祖母のなきがらは荼毘に付された。
 だが、お骨を拾う例の儀式までの間、悲しみよりはむしろほっとした空気が流れているように、僕には感じられた。それは……もちろん、祖母より長生きする人もおろうが、そうでない人も多いなかで、「天寿を全うした」と述べることが十分に可能な、祖母の年齢のおかげであったかも知れない。ここのところ祖母の体調が悪かったため、周囲にある程度の覚悟ができていたせいでも、あるかも知れない。だが、祖母の死から通夜、告別式を経てここに至るまでの宗教的な「手続き」のひとつひとつが、死者の冥福を祈る、といいながら、その実、我々遺されたものの心を癒すための仕掛けであったからなのかも知れない、とも、僕は考えた。
 そして、その「手続き」の一部始終を通じ、僕はただひたすら事態の推移を見守る傍観者であり続けた。何も感じることができなかった。というより、祖母の死という事実を、その意味を、まったく把握できていなかった。
 だから、何を感じることもなく、僕は祖母の骨を拾ったような気がする。そばで、お寺の住職さんが、この火葬場は強い火力で燃やしてしまうが、それでもこれだけお骨が残るのは生前の功徳のなせる業だとか、そんな意味のなさげなことをいうのが聞こえた。

★  ★  ★  ★  ★

 祖母がこの時点で亡くなることは、しかし、親類たちの皆が予想していたことではなかったはずである。
 亡くなる一ヶ月前くらいから、祖母の容態はときおり危険な急変をみせるようになっていた。その晩も、呼吸が止まったと連絡があった。またか、と思った。祖母は僕の住まいからは少し離れた場所に住んでいたが、自動車でなら一時間かからずに行ける距離だ。叔父の車で僕の両親が先発した。多分何とか大丈夫だろうとは思うが、と楽観的な見通しを残して。
 いっぽう、免許取得したばかりの僕は、別な場所に姉を迎えにゆき、後を追いかけた。夜の高速道路を、未経験の速度で突っ走った。経験不十分でハンドルさばきが甘く、車体がものすごく動揺するのがわかったが、急がなければならないと思った。
 だが、僕たちが到着したとき、祖母はすでに亡くなっていた。
 この日、祖父は、何とか持ちこたえて病院から帰ってくると信じて、祖母を送り出したのかも知れなかった。だから、祖母のなきがらがいったん戻ってきたとき、祖父は「ありがとうございました」といって泣いた。祖父は、祖母のお骨が帰ってきたときにも、同じ言葉を口にして、泣いた。
 祖父が脳出血で倒れたのは、祖母の死の十年ほど前であった。それ以来、障害を抱えることにはなったものの、幸い祖父の状態ははた目には安定して推移していた。そして、祖母がそれを支えて、比較的元気でいたものだった。ところが、亡くなる半年ほど前から、祖母の状態が急激に悪くなった。わずかの時間のうちに、発語さえ困難な状態まで追い込まれた。
 あまりの急変だったので、それが死につながると理解できた人は、祖父も含めてあまりいなかったのではないかと思えた。

★  ★  ★  ★  ★

 僕もそうだった。
 祖母がそういう状態に落ち込む直前、どういういきさつか忘れてしまったが、祖父母に「飛行機と新幹線に乗る旅行」をプレゼントしよう、と言い出したからである。
 多分、単に速いモノが好きで、それを祖父母にも味わってほしい、というだけのことであったと思う。だが、祖父母ではもちろんあまり長距離は無理だろう。まだ行ったことがないそうだから、京都あたりはどうだろう? 大阪まで飛行機で飛んで、大阪から京都へ。帰りは新幹線で。あるいはその逆でもいいかも知れないね。
 考えてみれば、機上の人となったときに祖父母のことが思い出される理由とは、たったこれだけのことだった。それは、個人的な死のほとんどすべてについてまわることがらの、一例に過ぎない。
 だから、大したことではないのだけれど、と、内心苦笑しながら、実現しなかったその旅行のことを、ひととおり頭に巡らせてみる。それはどんな旅行になっただろうか。飛行機や新幹線、そしてその向こうにある京都・大阪を、楽しんでもらうことができただろうか。祖父には「疲れたよ」とひとこといわれるだけだったかも知れないが。

★  ★  ★  ★  ★

 今までの旅だったら、回想はここで終わるはずだ。僕は、そこで過去に微笑を送り、ゆったりと体を休めることができた。その休息が、この高速をもってしても長時間を要し、体力を消耗する飛行機の旅に必要なものであることも、また確かだった。

★  ★  ★  ★  ★

 いつもより多い見送りの人々に、別れぎわに手を振った。いつもの出国手続きをして、搭乗口が開くのを待った。大荷物を機内に持ち込んで、頭上のラックに押し込め、狭い座席に体を押し込めた。機器の異常でしばらく待たされたものの、やがて機体はエプロンを離れ、遠く離れた滑走路に向かって動き始めた。
 そして、滑走路の奥に自分を据え付ける。
 ジェットエンジンの音がいままでになく高まる。慣性力が、体をシートの背もたれに強く押しつけてくる。そして、軽いショックとともに、機体が地面から離れるのを感じた。
 なぜかいつもと違う急旋回をしたものの、そのあとはひたすら夕日に向かって雲の上を進んでいった。順調な飛行である。
 乗換のある便を予約したから、このフライトは4時間程度の短いものだ。
 だが、今回のフライトは、間違いなくいつもと違っていた。
 休息の心地よさが、いつまでも体にしみこんでこないのだ。
 記憶はいつでもそこにある。だから、休息にとって回想が必要なのであれば、「羊が一匹、羊が二匹」とやるように、過去をまぶたの裏に呼び出してやればよい。だが、そうではないようだ。何をしても、どうにも落ち着かない。
 最近話題の「エコノミークラス症候群」対策として、足を動かすことが勧められている。隣に迷惑をかけないように、太腿を持ち上げてみる。足にたまった血液が動き出すからか、多少は気分が良くなったような気がする。だが、それだけだ。
 窓の外には、飛行機の速力より速く、西に沈む夕日が見える。それを見ても、ワクワクするような気持ちにもならない。
 何が違うのだろう、と考えてみる。「エコノミークラス症候群」に関するアナウンスを、機内で頻繁にやりすぎるからか? 最近、この航空会社のシートが、かけ心地のわるいものになったのか? この特別な旅の準備の疲れか? それとも、いつにもまして強い不安感のなせるわざか?
 これらのどれも、理由の一端ではあるだろう。だが、それだけではない、何かがある。僕には、確かにそう思えた。

★  ★  ★  ★  ★

 祖母の死によって、祖父母へのプレゼントになるはずだった旅は、永遠にその実現の機会を失った。だが、祖父がまだ生きている。祖母の死を惜しむ一連の行事が済んだころをみはからって、祖父とともに旅に出ることは、悪い話ではないと思えた。「これからも何度も顔を見に来るから」とか言ったような覚えもある。
 だが、結局のところ、それらの約束も、すべて果たすことはできなかった。
 祖母の死から二十日程度を経て、祖父も意識を失ったからだ。
 祖母が亡くなってからしばらくして、祖父もリハビリに精を出すことにしたらしかった。祖母がいなくなったさびしさを紛らわす意味もあったようだ。だが、周囲から「あまり頑張りすぎるとよくない」といわれた部分は、明治生まれの頑固さで無視してしまったのかも知れない。
 ともあれ、僕が病院に駆けつけたときには、祖父の意識はすでにまったくなかった。
 担当の医師が、検査結果などを説明し、意識が戻る可能性がないことを我々に告げた。それはそうだろう、と思った。脳死、とかいわれるんじゃないかと恐れていたが、脳死ではないらしかった。
 一連の説明のなかで、僕がもっとも驚いたのは、祖父の胸部レントゲン写真だった。
 何も写っていなかったのである。
 いや、文字通り何もない、というわけではない。多少は写り込んでいるものがあったのは事実だ。だが、それらはあまりに影が薄かった。
 祖父の生命が、これまで精神力だけを頼りに保たれてきたことを、それは明瞭に示していた。祖母の容態が悪化していったとき、障害をかかえる祖父までが、介護の担い手として重要な役割を負っていたからだ。
 病室に横たわる祖父は、呼べば返事をして起きあがりそうな様子にも見えた。何度か、咳払いをするのを聞いた。だが、咳払いは脳幹反射でしているだけなのだそうだ。その場で、話の分かっている誰かが、そうつぶやいた。

★  ★  ★  ★  ★

 医師の説明通り、祖父の容態はその後好転することはなかった。
 肺の機能も低下していた。血中の酸素濃度が減少するため、血流を増すべく、心臓の鼓動が非常に速くなっていた。まだ失われていない、脳の制御機能のなせる業であるらしかった。単純な仕組みだ、と思った。心臓にとっては、全力疾走に近い状態だと、母は言った。
 全力疾走が、いつまでも続くはずもなかった。このままでは、どこかが壊れてしまうだろう。もう、それがどこになるかだけが、問題だった。祖父の場合、脳にある血栓のひとつが、脳から心臓に押し流され、それが冠状動脈をふさぐ、とか、何かそんなことが起きたと聞いている。
 祖父の心停止、死亡の知らせは、そのときたまたま会議か何かで、仕事場の研究室から外出していた僕のもとに、電話で届けられた。研究室のひとが、必死になって外出先を探してくれたらしかった。その会議を中座して電話に出ると、電話番号を言付けられた。だが、改めてそこに電話しなくとも、内容はわかっていた。
 母には、通夜には出るけれど告別式には出ない旨を伝えた。いくつもやらなければならない仕事があったからだ。祖父とは、意識を失った日に、お別れをしたような気になっていた、というのもあった。祖父も事情はわかってくれる、そんな気もした。

★  ★  ★  ★  ★

 トランジットのためにだけ立ち寄ったその空港は、最近できたばかりの新しいところだった。時刻はもう真夜中に近く、ガラス張りのロビーにはこの便の搭乗客のほかはあまりいないように見える。
 乗換え先の便の搭乗口のそばには、真新しいいすがずらりと並んでいた。そのひとつに座り込む。そして、いままでのことを考える。
 やはり、祖父の告別式には、出るべきだったのかも知れなかった。祖母のお葬式のとき、宗教的な「手続き」は、実は遺されたものの心を癒すための仕掛けだとか、不遜なことを考えていたのはどこの誰だっけ、と考えると、苦笑せざるを得ない。
 だから、これが僕の、十年近くかかってようやく果たす、祖父母への告別なのだ。
 祖父母が背中を押して、送り出してくれている。なぜかはわからないけれど、僕はそう確信した。
「進め、未来はそこにある……」

★  ★  ★  ★  ★

 祖父の死からしばらく経って、納骨の日がやってきた。
 読経が終わると、祖父母の骨の入った壺は叔父叔母たちが自分で手に持ち、三々五々という感じで墓地へと歩いていった。そして、骨壺はぶじ墓に納められた。祖父母は、そこに安らかに眠ることになる。
 青い広々した空が印象的な、明るい場所にある墓地だった。高台というわけではなかったが、そこからは道が海に向かって下り込んでいった。灯台まで見渡せる、見晴らしのよい道だった。まっすぐ駆け抜けていったなら、そのまま大空まで飛び出してしまいそうな……
 その情景が、空港を飛び出す巨大な機体のイメージと重なる。
 いま、空港は夜だけど? そんなことはどうでもいいじゃないか、と、自分の中で誰かがつぶやいた。地球のどこかで、陽は昇っているのだから。
 その陽の昇るどこかに、僕の新しい場所はあるはずなのだ。
 同じ旅は二度とはない。この旅の先には、いったいどんなことが待っているのだろう。そう考えながら、僕は搭乗口を通過した。
 手には、初めての片道だけの航空券がある。

(おわり)


高木 亮 / TAKAGI, Ryo webmaster@takagi-ryo.ac
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