RTざんまい / RT Zammai
 
サイトマップ | 巻頭言 | お写真 | 鉄道ざ | 橋梁ざ | 種撒き
Sitemap | Coverstory | Photos | Railways z. | Bridges z. | Seeds
現在のページ :
トップ >> 巻頭言 >> 2001年 >> その27
You are now in :
Top >> Cover Story >> 2001 >> No. 27
 

2001. 9. 30. / 30 September 2001

12月8日、8月15日、9月11日
8 December, 15 August & 11 September

I have experienced this year's 15th of August, "the anniversary of Japan's surrender" in World War II, in Birmingham. However, when I tried to explain to my colleague that this was the day, I felt a strong reluctance. But this must be what Japan has avoided all through these postwar years.

Upon the outbreak of WTC terrorism on 11th of September this year, many referred to it as "the worst terrorist attack since Pearl Harbour". However, in Pearl Harbour attack, destroyed was the military base there, and the United States has repeatedly attacked military facilities in the Middle East, killing a lot more people than those killed at WTC. It therefore does not make sense if Pearl Harbour and WTC attack are clearly distinguished. I was sad that the Japanese Prime Minister Koizumi did not mention anything about this important distinction.

This summer saw many controversies around Japanese history textbooks and Mr Koizumi's visit to the war shrine of Yasukuni. All these facts show the thoughtlessness of Japanese prime minister or the Japanese government about historical issues.

If not mentioning of it as war, WTC terrorism apparently heralded a new era in which we should fight "a somewhat new kind of fights". Although I knew that I was only too hopeful, I thought that it was a good chance for Japan, who made the local religion of Shinto and the foreign religion of Buddhism and many others, can make a good contribution to the world as the only G8 member that is not religiously based on Christianity. Of course, the prime minister made no comments about it --- he must still be believing in Japan as "a divine country with Emperor on top" as what that gaffe-prone Prime Minister Mori said earlier. I will not forget that Mr Koizumi has backed Mr Mori for all his term of office.

今年の8月15日、 僕は大学である書類を作成していた。 日付の欄に 15 August と書き込んだとき、 ああ、 その日なのだと感慨に浸った。

だが、 そのことを英語で説明するとなったとき、 言葉の選択のところで思考が止まってしまった。

ふつう、 日本国内ではこの日のことを 「終戦の日」 という。 そのこと自体は間違っていないのだが、 それをそのまま訳して "the day World War II ended" といっても、 何のことかわかってもらえない、 と思った。 BBCなどは "the anniversary of Japan's surrender in the World War II" という言い方をしている。 surrender というのはいうまでもなく 「降伏」 の意味である。

anniversary という言葉を何とか避けて "the day when Japan surrendered in 1945" とか説明しながら、 改めて 「敗戦」 の意味を考えさせられることになった。

巻頭言その25で、 僕は戦没者のことなど 「単に歴史上のことにすぎないから」 「どうだっていい」 問題だ、 と書いた。 このことについて、 少し補足をしておく必要があるような気がする。

これにわが友人T氏が 「それは違うんじゃないか」 と反応してくれた。 たぶん、 多くの読者もそうおっしゃると思う。

実際、 「どうでもいい」 というのが 「自分とは無関係」 ということであるなら、 それはどう考えても違う。 特に、 9月11日の米国におけるテロ事件のようなものに正しく対処することを考えたとき、 歴史という視点の重要性はあまりに大きい。

では、 なぜそんなことを敢えて書いたのか? カギカッコで 「どうでもいい」 と括ったことからわかるように、 僕は確かに 「敢えて」 この言葉を選んで書いたのである。 選択を誤ったかも知れないと少し反省するところもあるが、 その要点は次の通りだ。 この言葉を選ぶにあたって念頭に置いた、 日本政治システムの中枢に巣食う病巣…… 神聖な存在としての天皇を復活し、 戦前的なシステムの復権を目指す集団…… に対して、 歴史を相対化すべきことを述べたかったのである。 「どうでもいい」 が、 「無関係」 ではないわけだ。

「どうでもいい」 ことであれば、 精神に破綻を来さずに、 あるがままに受け入れることができる。 しかし、 彼らの場合 「無関係」 ではない歴史が自分の意に染まぬものであるため (つまり「どうでも」よくない)、 それをあるがままに受け入れることができず、 その結果歴史をねつ造したりといったことが起きるのだろう。 話題になった 「つくる会」 教科書に至っては、 あれを書いた関係者は神経症の治療が必要じゃないか、 とすら思えるくらいだ。

この夏、 日本は歴史観問題でまたまた揺れていた。 その一方がその歴史教科書問題、 そしてもう一方が小泉首相の靖国神社参拝問題である。

「新しい歴史教科書をつくる会」 の教科書は、 わずか0.1%の採択をも勝ち取ることができずに 「惨敗」 した。 土壇場で日本の良識が勝利したことをうれしく思う。 そして、 その勝利にインターネットが大きく貢献したことも特筆していいだろう。

「つくる会」 関係者は 「特定の団体による組織的圧力による敗北」 ということにしたかったらしいが、 それは明らかに事実に反するのであって、 インターネットのウェブページを見た 「普通の」 人々が、 彼ら自身の意志でファックスや電子メールなどで声を届けようとしただけなのだ。 僕も、 そのうちの1通を出そうとしていた (しかし、 システムがコケて出すことができなかった) ことを告白してもよかろう。 ただ、 その呼びかけをしたウェブページのトップにあるGIFアニメーションについては、 僕は非常に不愉快に思っているのだが……

なにより残念なのは、 ここまでに至る長い経緯において、 この種の良識が見える形で届くことが、 この最終局面に至るまでなかった、 ということだ。 あの石原都知事は何度も問題発言を繰り返したにもかかわらず、 都庁に届いた 「市民の声」 はむしろ都知事支持のもののほうが多かったくらいで、 石原都知事は自分が多数の都民に「支持」されていると勘違いしたらしい。 同じことが 「つくる会」 についてもいえる。 たぶんに自民党などの背後組織による 「組織票」 に助けられてのことだったが、 彼らの書いた本が大いに売れたため 「広範な支持が得られている」 と彼らに勘違いさせることになってしまった。

この 「組織票」 が可能であることからもわかるとおり、 彼らは政治の中枢と深くつながって活動を行っている。 従って、 ファックスや電子メールの集中という形で届けられた 「市民の声」 を 「特定団体による不当な圧力」 と言い換えることによって、 そのような声自体をシャットアウトするシステムを作る力を、 彼らは十分に持っている。 現に、 教育現場で使う教科書を決めるのに、 現場の教員をその決定過程から排除する、 という、 考えてみれば信じがたい 「改善」 が彼らの主導のもとで行われたのだ。 その意味で、 我々のたたかいはまだ始まったばかりというべきだろう。

一方、 首相の靖国参拝問題は、 首相がなぜか13日に参拝するという意味不明の行動に出て、 彼の思慮の浅さだけが深く印象に残る結果となった。 この思慮の浅さはあまりに深刻であり、 彼がとなえる経済 「改革」 の先行きに疑いを持たせるにも十分であるといえそうだ。

考えてみれば、 8月15日は日本が第2次世界大戦に敗北した日なのである。 まさに、 英語でいう anniversary of Japan's surrender in the World War II だ。 その日に靖国神社に参拝する、 ということは、 「つくる会」 的にいえば自虐的であるといってもいいかも知れない。 この意味からは、 中国がこの日の参拝を怒る理由はどこにもないような気がする。

ところが、 中国・韓国は現に怒っているし、 その怒りにも十分理由があると思われる。 その理由は、 つきつめていえばあの日を 「敗戦」 の日ではなく 「終戦」 の日といいかえてきた、 我々の姑息さに求めることができるのではないか。

だから、 我々がもし第2次世界大戦の反省が足りないとしたら、 それは戦時中の数々の残虐行為もさることながら、 むしろ 「なぜ負けたか」 に関する考察が足りないことに求めることができるかも知れない。

なぜ負けたか。 それは、 太平洋戦争のいろいろな局面で日本軍がどのように戦ったか、 という問題もあるし、 それ以前にどのような外交交渉をしたか、 どのような政策でもって植民地を獲得し、 支配しようとしたか、 といったことすべてを含む。

そういう視点があったなら、 今回のテロ事件で 「真珠湾攻撃以来」 という言葉が繰り返し使われることに対し、 首相が何も批判を口にしないなどということはあり得ないに違いない。 1941年12月8日の真珠湾攻撃では、 軍関係者は多数死傷したが、 一般市民の死亡は (ないわけではなかったが) ずっと少なかった。 2001年9月11日のWTCビルへのテロ攻撃においては、 軍関係者の死亡はほとんどないに等しい。

真珠湾とWTCテロを区別できないと、 米国が中東で実際に行ってきた殺戮行為はWTCテロと何ら変わりないもの、 という批判に分があることになってしまう。 実際に、 今回のWTC事件でなくなった人の数より遙かに多数の人々が、 米国の数々の攻撃によって死んでいるのは事実だからだ。 米国は、 それらが軍事拠点を破壊したものとしているが、 それが事実であったとして、 それこそまさに真珠湾攻撃が行ったことそのものである。 これらの区別ができない米国であればこそ、 中東のイスラム諸国からの深い恨みを買うことになるのだろう。 それなのに、 真珠湾とWTCテロの同一視に対する批判的言明は、 わが小泉首相の口からはついに出てこなかったようだ。

一方、 8月15日に関しては強引な参拝が行われる。 さらに日本の 「敗戦」 に関しては、 何らの考察も行われない。

このことの意味するところは何か? 簡単にいえば、 彼らはまだ歴史を 「歴史として相対化する」 ところまで自分を持っていくことができていないのではないだろうか。

そこで、 僕の先の 「どうでもいい」 発言が来るわけである。

実際には、 歴史を相対化するというのは 「どうでもいい」 と言い切ることの何十倍も困難な仕事である。 そして、 その原点には確かに1945年8月15日があるべきだ。 そこで中心にあるべきなのは、 おそらく天皇の玉音放送ではなく、 日本が敗北した、 という単純な事実なのではないだろうか。

今年、 こうした考慮の浅い人々のおかげで、 特に外国で過ごす日本人が肩身が狭くなるような夏を過ごしたあと、 世界はWTCテロ事件という信じがたい光景を目にした。 これを戦争といいたくはないが、 あたらしい戦いの幕が切って落とされたことだけは、 事実だろう。

ここにおける日本の対応は、 湾岸戦争のときよりは断固たる姿勢でよろしかったかも知れないが、 例によって例のごとくの浅慮の結果、 日本が先進国中唯一の 「非キリスト教国」 であるという事実がどこにも出てこなかった。 悲しいというべきだろう。

正確にいえば、 他の先進国も 「キリスト教国」 ではないし、 何度も繰り返し各国首脳が述べているとおり、 テロ対策はイスラム教国に対する戦争ではない。 けれど、 ブッシュ大統領が 「十字軍」 (crusades) という言葉を (いささか不用意に) 用いたことからもわかるとおり、 この背景にキリスト教とイスラム教の対立があることは明らかである。 そのどちらにも基本的には属さず、 ローカルな信仰と外来宗教である仏教そのほかとを見事に融合させてきた文化的実績を有する日本が、 このたたかいに何らかの形ででも参加することの意味を、 明らかにしてほしかった、 と思わずにいられない。 それは日本にとって大きな機会だったはずなのだが。

もちろん、 そのようなことは小泉首相には無理なのは百も承知だ。 なにしろ、 「日本は天皇を中心とした神の国」 と言い放ったあの森首相を、 その在任期間中ずっと支え続けた人である。 彼の宗教観もその程度の浅薄なものに違いないのだ。 そうでなければ、 8月13日に参拝することなどできようはずもない……


高木 亮 / TAKAGI, Ryo webmaster@takagi-ryo.ac
(c) R. Takagi 2001. All rights reserved.