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橋梁ざんまい >> [橋梁訪問記] 総武線隅田川B
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ページ執筆 2001. 4. 22
最終更新 2003. 2. 10

総武線隅田川橋梁

橋梁訪問記
JR総武線 両国駅
(1) 両国駅。
総武線隅田川橋梁
(2)隅田川橋梁。珍しい色の169系が走ってきた。

1995年1月17日のあの「兵庫県南部地震」(阪神淡路大震災)では、 全体で6000人以上もの方々が亡くなった。 たいへんな死者数であることはいうまでもない。 災害のテレビ報道で、 よく避難所に来た被災者にマイクを向ける場面があるが、 そこで家族の安否を聞いて「死にました」という答えが返ってきた例など、 神戸以前にはなかったのではないか。 テレビが普及してからこれまでの日本の災害では、 そのくらい死ぬ人が少なかったということなのだろう。

しかし、 6000人程度でこれだとすると、 数万人もの人が亡くなる大災害というのはいったいどういう状況なのか、 戦後日本を生きてきた高木にはもはや想像しがたい。 だが、 東京は現にそれを体験してきた都市であるし、 その状況に我々が直面する可能性は今後も高い。 そのことを、 東京に暮らす人間は常に忘れるべきでないと思う。

JR総武線両国駅から北に徒歩数分のところに「横網町公園」というのがある (よこあみちょう、と読む。 たまに相撲からの連想で「よこづな(横綱)町」と間違える人がいるので、 念のため)。 ここが、 1923年9月1日の関東地震の本震から約4時間後、 約3万8千人が「火災旋風」でいちどに命を落とした場所である。

公園内の立て看板などによれば、 本所被服廠跡と呼ばれたこの場所は、 名前の由来であった被服廠が移転して跡地が払い下げられ、 当時公園などの造成中であった。 参考文献によれば、 本震後そこに避難してきた周辺住民の数、 約4万人。 そのうち助かった人は約2千人、 5%にすぎなかった。

被災者が持ち込んだ家財道具に火がついたことが、 悲劇の原因の1つであったという指摘もある。 だがともかく、 大規模な火災が発生すれば火災旋風の可能性は常にあり、 火災旋風が起きることを考えれば安全な避難場所は存在しないのだそうだ。



総武線隅田川橋梁……「黄色い電車」と
(3)隅田川橋梁。こんどは黄色の201系電車が走ってきた。
総武線隅田川橋梁……水上バスと
(4)こんどは水上バスが橋の下に通りかかった。

この大震災のあと、 1924〜1930年の間に行われた「帝都復興事業」が、 その後の東京の基礎を作ったといってよいだろう。 1920年から23年にかけて東京市長、 のち1923年から内務大臣となった後藤新平のリーダシップにより、 この復興事業は世界の都市計画史上に例のない既成市街地の大改造となった。

実際には、 後藤新平のプランはこれよりさらに規模の大きなものであり、 これでも周囲の反対によりだいぶ縮小を余儀なくされた結果だった。 だが現在では、その事業の成果の大きさが改めて見直されている。

たとえば、 この時期に隅田川などに数多くかけられた「復興橋梁」によって、 日本の橋梁技術ははじめて自立することができたという。 「隅田川にかかる橋は、先進諸国に対する卒業設計であった」 という言葉もあるくらいだ。 技術的な面はもとよりデザイン面でも、 「帝都の門」となることを意識して橋梁「群」としてのデザインがなされたとされる。

昔のことだから事業もやりやすかったろう、 今は住民の反対が強く困難が多い、 などというのも誤解らしい。

たとえば、 復興事業実施当時も、 区画整理の実行が決定したのち、 住民による激しい反対運動が起こった。 このとき、 東大教授だった佐野利器をはじめとする関係者は、 熱心な啓蒙活動を行った。 1924年4月から6月までの短期間に、 約20回にものぼる講演会が実施されたというから、 その努力が並大抵のものでなかったことがわかる。 その結果かどうか、 非焼失区域であるのに住民の要望で区画整理が行われた例も出たほどだ (現在の墨田区向島1〜3丁目)。



JR総武線 松住町架道橋
(5)松住町架道橋。橋北側の交差点内から。(1999年2月13日撮影)
JR総武線 神田川橋梁と中央線乗越部
(6)神田川橋梁。(1999年2月13日撮影)

総武線の両国〜御茶ノ水間の線路も、こうした時代につくられたものである。

隅田川橋梁を含むこの区間の建設着手は1931年、完成は1932年だ。それまで、千葉県方面への鉄道は川の左岸にある両国橋ターミナル(現在の両国駅)が起点であり、東京都心の他の鉄道とは連絡がなかった。この区間が開通したことにより、御茶ノ水で中央線、秋葉原で東北線との連絡が初めて実現したことになる。

この区間は、御茶ノ水駅構内を除くとほとんどすべて高架線である。特に、秋葉原駅で既存の鉄道をまたぐ形になるため、前後の高架橋は当時としてはかなりの高さのものになった。地下鉄から高架鉄道までが集積した秋葉原駅など、「都市交通の未来の姿」ということで絵本にもなったと聞いている。

そのような区間に、当時花開いたあまたの新技術が惜しげなく投入された。

表題の隅田川橋梁は、鉄道用としては日本初のランガー桁橋である。鉄道用の橋はどうしても構造が「ごつ」くなりがちだが、ランガー桁とすることで桁を薄くし、軽快な外観を得ることができた。

このほか、御茶ノ水〜秋葉原間にある松住町架道橋(まつずみちょうかどうきょう)は、これまた鉄道用としては日本初の「タイドアーチ」形式。御茶ノ水駅を出発した下り電車が、 33パーミルという急勾配と、半径300メートルの曲線をたどりながらわたる神田川橋梁は、ドイツ・ブッパータールのモノレールのように、キリンが足を広げたような珍しい橋脚を用いた。秋葉原駅には、国鉄初のエスカレータとエレベータ。そして秋葉原〜浅草橋駅間にある昭和橋(昭和通りをまたぐ鉄道橋)には、当時最長のスパンを誇る桁橋がかけられた。



御茶ノ水駅の配線略図
(7)御茶ノ水駅の配線略図。

この区間が、鉄道建設史に残る金字塔であり得たのは、こうした新技術の投入だけによるわけではない。高層建築物が現在ほど多数存在していなかった当時、高架橋のデザインは景観に配慮して行われた。御茶ノ水の聖橋から秋葉原方面を望むと、松住町架道橋や神田川橋梁を含む線路が、秋葉原のビル群の間に吸い込まれていく様子を眺めることができるが、これは現在でも東京の代表的な都市景観のひとつであるといえる。また、松住町架道橋から秋葉原駅までの高架橋はアーチ橋ではないが、外観からはアーチの連続のように見せかける工夫がなされているが、こちらは現在ビル群の間に埋もれてしまい、遠くからその景観を楽しむことはできなくなった。

だが、こうした意味で圧巻なのは、やはり御茶ノ水駅であろうと思う。

この一連の改良工事より前、御茶ノ水駅は現在の御茶ノ水橋の反対側にあった。しかし、この位置は狭隘な場所であり、プラットホームを現在の2面4線の形態にすることは難しかった。そこで、駅を御茶ノ水橋の反対側に150mほど移設した。この位置なら、2面4線のホームの建設はかろうじて可能であった。

いわゆる方向別配線であることと、東隣に秋葉原や神田など山手線に接着する駅をかかえていることから、図のプラットホームBとプラットホームCとの間を乗り換えのために行き来する客はほとんどいない。また、駅舎も乗客流をスムースにすることを主眼に設計された。こうした要素があるため、あの狭隘なホームや階段であっても、いまなお何とか一日数10万人の乗降客をさばくことができている。

それを実現するため、総武線は御茶ノ水駅を出発するとすぐ33パーミルの勾配を駆け上がり、図のA点で中央線上り線を乗り越して高架橋上を秋葉原に向かう。中央上り線もA点に向かって25パーミルで下り込み、頭上に総武線をやりすごしてからふたたび下り線とレベルをあわせ、神田方に向かう。立体交差はE点にも設けられ、ここから新宿方ではいわゆる線路別複々線として機能させるようになってもいる。また、朝夕は総武線電車を御茶ノ水で折り返すが、緩行下り線のうち図のDで示した部分は、その折り返し用の引き上げ線として用いるように考えられ、現在に至るまで実際に用いられている。


これだけの内容を持つ線路が、あの大震災から10年を経ずしてつくられたことには、改めて驚嘆せざるを得ない。それは、単に新技術が登場したからできたという以上に、限られた時間で最大限によいものを残すべく考え抜いた、先人の思考的な努力のたまものでもあったろう。

それに比べ、戦後の大改良区間にかいま見ることのできる思考の、なんと薄っぺらなことか。

ちょうどこの隅田川橋梁の真下あたりを、総武「快速」線のトンネルが抜けているはずだ。 1972年開業のこの線路は、両国ターミナルの北側を急勾配で通過し、 2駅を経由して東京地下駅に至っている。

両国駅は、この線路の開業で房総方面への玄関口としての地位を完全に失ったが、それはまあいいことにしよう。しかし、御茶ノ水からの線路との接続駅となった東隣の錦糸町駅の様子はどうだろうか。

プラットホームは線路別で、緩行・快速線間の乗り換えに時間がかかる。秋葉原・御茶ノ水方面への旅客は、当然快速線の時間短縮効果の恩恵を十分に得ることができない。秋葉原・御茶ノ水方面から快速線千葉方面への直通もできるようになってはいるが、この際には本線横断が生じるため、朝ラッシュ時のような高頻度運転には対処できない。

御茶ノ水駅なら、朝ラッシュ時のような超高頻度であっても、千葉方面から快速線新宿方面への直通、あるいはその逆方面への直通などは容易にできる。現在こうした直通運転はオフピーク時の特急列車などに限られているが、この意味で御茶ノ水駅の可能性は、まだ十分に引き出されているとはいえないのかも知れない。


戦後、特に国鉄を中心にこうしたいい加減な線路が次々に造られていった。そういう時代がたぶん1990年代まで続いたと思う。しかし、時代は明らかにかわりつつある。

近年、東京圏でも鉄道の乗客が明らかに減少するようになった。少子化や労働時間短縮、道路へのシフトなど原因は様々だが、今後は大幅に輸送需要、従って収入も増えない状況下でやりくりをしていかなければならなくなった。こうしたなかで、この種の「思考」の足りない線路を使って、 JR東日本はサービスを続けることになる。

それでも、多くの民鉄のようにそもそも「施設が足りない」状況よりはよほどましだろう。現状を打破するためには、多くの「思考」さえあれば、あとは比較的わずかな施設の追加や改変だけで大改善を果たすことができるに違いないからだ。

もちろん、民鉄も手をこまねいて見ているばかりではないはずだ。両者が競争する形で、 21世紀初頭、東京の鉄道は生き残りを賭けてものすごく大きな変革の海に漕ぎ出すに違いない。若干の希望的観測も入ってはいるが、高木はけっこう本気でそう思っている。

データ

  1. 名称: 隅田川橋梁(すみだがわきょうりょう)
  2. 区間: JR東日本 総武線 浅草橋・両国間
  3. 着工: 1931(昭和6)年2月
  4. 竣工: 1932(昭和7)年3月
  5. 開通: 1932(昭和7)年7月
  6. 跨越対象: 隅田川
  7. 橋長: 170.80m
  8. 単線・複線の別: 複線
  9. 径間数・支間長: (1) 1 x (38.0m + 96.0m + 38.0m)
  10. 形式: (1) 複線下路はね出しつきランガー桁(無道床式)
  • 出典: 成瀬編: 「鉄(かね)の橋百選 −近代日本のランドマーク」, 東京堂出版 (1994) (同書では道床式とあるが無道床が正しい)

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高木 亮 webmaster@takagi-ryo.ac
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