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1999. 11. 3記

「原発を見に行こう」

購入商品一覧

  • 上坂冬子: 「原発を見に行こう 〜アジア八ヵ国の現場を訪ねて」, 講談社 (1996).
    お勧め度(×)……高木が所有しているのは初版本、1996年購入。

関連参考文献

  1. 「シンポジウム 21世紀のエネルギーを考える99 危機管理へ官民努力 基礎から学ぶ原子力」, 読売新聞, 第44372号, 18・19面, 読売新聞社 (1999年10月26日 (火)).
  2. 上坂冬子: 「一呼吸外す」, ウェーブ, 電気新聞, 第23949号, 14面, (社)日本電気協会 (1999年7月29日(木)).
  3. 茅陽一: 「京都通勤の楽しみ」, ウェーブ, 電気新聞, 第23913号, 8面, (社)日本電気協会 (1999年6月8日(火)).
  4. 天声人語, 朝日新聞, 第40805号, 1面 (1999年10月16日).
☆   ☆   ☆   ☆   ☆

まずはじめに断っておくが、 高木は原子力利用に反対の立場から以下の文章をしたためるのではない。 しかし、 この本 「原発を見に行こう」 は、 資料集として使用する以外、 全く読む価値のない本である。

この本の冒頭にある以下の文章を読んで、 呆れてものがいえなかった。

素人が原子力発電所を見学したところで、 果たしてどんな収穫が得られるのかといえばそれまでだけれど、 私としては例えばIAEAの建物ひとつをとってみても、 やっぱり行かないより行ってよかったと思っている。 行ったからこそわかったという問題もあるのだ。 (中略) 私はすでに三回、 ヨーロッパの原子力発電所めぐりをしているが、 その成果はたとえばムルロワ環礁におけるフランスの核実験ニュースなど聞いたとき、 私の胸の中にはっきり現れている。 あのころ、 まるで世界をあげてフランスの非道をあげつらうかのような報道が繰り返されたが、 私はその一辺倒な批判の外に立つことができたのだ。
(引用部その1 ……同書、p. 30)

ムルロワ環礁での核実験に対して日本は騒然としたが、 私は 「おそらくあのフランスがそれなりの判断を下して行った以上、 日本の大蔵大臣がわざわざ反対の意思表示に出かけていったところで場違いな存在になるだろう」 と早くから見通していたものだ。

ヨーロッパの一角で、 原子力を国家的重要産業に結びつけている国が行う核実験は、 国策としてかけがえのない "決断" であろう。 これに対して、 五十年前の原爆を盾に、 当時子供だった日本人やまだ生まれていなかった人々がどんなに "思い" を込めたところで、 どだい次元のズレた話だ。

(引用部その2 ……同書、p. 32)

フランスの "決断" はかけがえのないもので、 史上唯一の被爆国たる日本の "思い" のほうはどうだっていいらしい。 この了見の狭い選良意識にも困ったものだが、 せめてそう考える根拠くらい書いておいてほしいものである。 自分のことを素人と考えているらしい上坂氏は、 上記引用部分で素人が 「行ったからこそわかったという問題もある」 としているから、 何が「行ったからこそわかった」のかがわかればこの芬芬 (ふんぷん) たる選良意識の根拠も明らかになるだろう。 ところが、 それに対する回答はまったく示されないのである。

「あのフランスがそれなりの判断を下して…」 とあるが、 「あの」 フランスとここでいわれているのは、 OECD / NEA (経済協力開発機構/原子力機関) の元事務局長・植松邦彦氏の指摘にある、 「物事の判断がきわめて合理的で、 故もなくおびえるとか、 わけもなく騒ぐという国民ではない」 (同書、p. 31) というフランス人気質のことをいっているらしい。 しかし、 これでは説明になりようがない。

「タヒチ島まで出向いて反対を訴えた日本の大蔵大臣の正義の見方風の行動」 が上首尾とはいかない終わり方をした状況を 「無駄な抵抗というべきだろう」 などと得意げに紹介 (同書、p. 32) した上坂氏は、 さらに以下のように続ける。

フランスのブランド商品不買運動にまでとばっちりが及んだほどの嵐も、 喉元すぎれば例によって例のごとく静まり返ったが、 私としてはあの興奮にまき込まれずに済んだのは、 フランスの原子力の周辺を見てきたおかげだと胸をなで下ろしていた。 実際、 日本では大相撲のパリ講演まで反対してみせるほどの低俗ぶりで、 一旦スローガンがかかげられると、 たちまち "一億総火の玉" となって燃え上がるこの種の根性こそ、 かつて太平洋戦争を起こした真犯人ではないのかと私はゾッとしたものだ。 この全体主義好みの風潮が事と次第によっては、 いつまた問答無用で見当違いの好戦気分を盛り上げるか知れたものではない。
(引用部その3 ……同書、pp. 32-33)
なぜ 「フランスの原子力の周辺を見てきたおかげ」 で 「あの興奮にまき込まれずに済」 むのか、 納得のいく説明はないのである。 そもそも、 素人がふつうに考えれば、 エネルギー源が同じウラン原子核の分裂であるという以外に原子力と原爆とがどうつながりうるのか、 ということからして理解できないであろう。

さらに、 引用部その3にはそれだけではない悪質な部分が隠されている。 ここでは要するに日本の反仏運動の、 あるいは日本の世論の低俗さがあげつらわれていることになるが、 それより前、 さきほどの引用部その1で上坂氏は 「あのころ、 まるで世界をあげてフランスの非道をあげつらうかのような報道が…」 と述べていることに注目しよう。 つまり、 あのときの一連の報道や運動の嵐は日本にとどまるものではなかったことになる。 従って引用部その3で 「一旦スローガンがかかげられると、 たちまち "一億総火の玉" となって燃え上がる」 と揶揄の対象となっている日本人に特有の精神 (そんなものがほんとうにあるのかも疑問だが) が発現した事例には、 そもそも該当し得ないのである。

この部分は冒頭の 「プロローグ」 における 「余談」 であるから、 これをもって全体を否定するのは気の毒かも知れないが、 少なくともこの本の価値を推し量る材料としてはあまりに否定的すぎる。 8つの国々の原子力施設をめぐる機会というのは大変貴重なものなのだが、 このような分析をまず見せつけられ、 読み進む気力を失ってしまった。

上坂氏のこのような誤った議論の方法は、 この本にとどまらないようである。 たとえば、 参考文献1は読売新聞社主催のシンポジウムであるが、 参加者として登場した上坂氏は冒頭で 「今回の (JCO東海事業所における臨界) 事故は原子力発電所とは無関係の問題だ」 「これが原子力の "ゲ" の字が共通だからというので、 今回の事故が日本の原子力製作全体に大変な影響を及ぼすかのように言われているとしたら本末転倒だ」 と主張している。 そこまではわからなくもないが、 そのあと別な参加者 (広瀬正美氏) が 「今ここに来て、 何か間違った、 あるいは何か落ち度が生じているように思える」 などと発言したのに対し、 「例えばガソリンスタンドで火事があった場合に、 だから社会から自動車を追放せよとは言わない。 今度の事故も同じで、 燃料をつくる会社で極端な手落ちがあって起きた事故を、 一億総懺悔に結びつけるのは日本人の悪い癖だ」 と応じている。

これは、 「原発を見に行こう」 に見られたものとまったく同じ論法である。 JCO東海事業所の事故と原子力発電所の関係は、 ガソリンスタンドにおける火災と自動車の関係とは全く異なる。 ガソリンスタンドにおける火災で、 施設周囲の半径300メートル以内の人々に対し避難勧告が長期にわたり出される事態は、 あり得ないとは言えないものの相当稀な事故である。 少なくともJCOの社内で行われていたと同程度の人為ミスで起きるとは想像しがたい。 今回の事故では、 わずか20kg弱の 「燃料」 のハンドリングの誤りで、 そのようなことが現に起きているところに問題の所在があるのだから、 ガソリンスタンド云々の言明はまさに詭弁である。 また、 事故後オーストリアから来日していたスポーツ選手団が急遽帰国した事例からもわかるように、 事故の影響はむしろ海外で深刻に捉えられているようにすら見える。 国内で一億総懺悔というべき事象はそもそも現れておらず、 その意味では完全に的外れな批判である。 その的外れな発言をとらえて 「"総ざんげ" 本末転倒 …上坂氏」 という見出しをつけた読売新聞もしょうがないなと思う。

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現在の職場に移ってから、 上坂氏の文章に接する機会が増えた。 職場で回覧される 「電気新聞」 の最終面に 「ウェーブ」 というコーナーがあり、 専門家たちによるエッセイがオムニバス連載されているが、 上坂氏はこの欄の執筆者のひとりだからだ。 東大名誉教授の関根泰次博士、 茅陽一博士など東大電気系学科関係者には懐かしい方をはじめ、 西部 邁氏とか八幡和郎氏とか豊田有恒氏とか、 他にも多くの方々が書いていて実にオモシロイので、 他に読むところがなくてもこの欄には目を通すようにしている。

その「ウェーブ」欄に上坂氏が執筆した 「一呼吸外す」 なるエッセイ (参考文献2) が掲載されたのは1999年7月29日のことであるが、 その冒頭に次のようにあるのを読んで、 一瞬頭が混乱したのは僕だけではないだろう。

6月8日付のこの欄を読んで、 私はしばし絶句した。
(参考文献2、第1段落より)

次の段落の冒頭で、 上坂氏が 「しばし絶句」 させられたのは前述の茅氏の書いた 「京都通勤の楽しみ」 (参考文献3) を読んだからであることがわかる。

ふつうこういう書き出しであれば、 当該日のこの欄に何か到底信じがたいことでも書いてあり、 これから上坂氏が何か痛烈な批判を展開するものと誰でも思うだろう。 しかし高木は回覧されてきた電気新聞の 「ウェーブ」 欄はほぼ毎号チェックしているから、 その茅氏の 「京都通勤の楽しみ」 の内容もおぼろげながらわかっている。 少なくとも、 絶句するほど読者を怒らせるような内容が含まれているとは思えないのである。

問題の 「京都通勤の楽しみ」 のほうはざっとこんな内容である。 茅氏の自宅は東京にあるが、 今年から京都にある環境関連の研究所の仕事を兼務することになったため、 東京・京都間を新幹線で頻繁に往復することを余儀なくされるようになった。 毎度ホテル泊りよりよかろう、 街になじもうということで、 駅のそばにアパートまで借りたそうだ。 ふつうならこういう生活は大変なことだと思われるが、 秘書さんがスケジュールの調整に苦労することを除けばこれが案外よい。 3時間弱の乗車中、 新幹線の車窓を眺めるのもよし、 読書や仮眠もよし。 京都という街になじむのは難しいとよくいわれるが、 暮らしてみれば街の人もすぐ受け入れてくれる。 食べ物も言われるほどまずくない。 ただし、 唯一 「ひかり」 に食堂車がないのが残念だそうだ。 茅氏は「JRに再考してほしい」と結んでいるが、 残念ながら現在東海道では唯一の食堂車つき車両である100系電車も廃車が始まり、 代替新造車は食堂車も2階建て車もない700系電車であるから、 茅氏のご希望がかなえられる見込みはない。

というわけなのだが、 この文章のどこに上坂氏が文句をつけるのかまったくわからない。 そこでよくよく見直してみると、 なぜ上坂氏が絶句したのかはここまでの文章には記されていないことに気づく。 茅先生は高木の博士論文の審査担当教官のひとりであり、 その先生の文章がこき下ろされるとなれば個人的にもいい気はしない。 何を怒っているんだろう、 とハラハラしつつ続きを読んでみると、 第2段落が次のような言葉で結ばれ、さらに第3段落に続く:

私が絶句したのは、 これがシステム工学の専門家のエッセーだったことである。

この欄はそれぞれご専門の立場からのサゼスチョンや見解などが述べられていて、 それなりに読みごたえがあるし、 私も素人なりに大まじめにテーマを選んだりしてきた。

(参考文献2、第2〜3段落より)

ということは、 システム工学の専門家たるもの、 こんなふざけた文章は書くべきではないとかいうのだろうか? 「ウェーブ」 欄を電気新聞の編集者がどう位置づけているかわからないが、 テーマは人それぞれ、 何でもあり、 なようである。 システム工学の専門家だからシステム工学に関係したことしか書いちゃいかん、 という編集方針にはまったく見えないのだが…。

おかしいな、 と思って読み進めると、 第4段落はこう続く。

そこへ突然 「京都通勤の楽しみ」 である。 最初にえっ!と思い、 つぎに本文を読んでほのぼのとし、 そして最後に私は絶句した。 意表を突かれたことはまちがいない。

上坂氏の文章の読者は、 ここでようやく 「絶句」 の意味 (よい意味で意表をつかれ、 言葉を失った) をおぼろげに理解することができる、 という仕儀だ。

「ウェーブ」欄はおそらく2000字程度であろう。 この程度の長さの文章であるからまだ救われたが、 この文を読む限り文章力の鍛練不足の疑いを持たざるをえない。 この例は恐らく上坂氏の数ある著作の中でも最悪の類いだろうが、 今回掲げたフランス核実験の例のように、 「原発を見に行こう」 でも著者の意図の読み取りに苦労させられることは少なくない。

最近、 何かを読んで絶句したという意味で似たような例を朝日新聞の 「天声人語」 に見つけた(参考文献4)。 こちらの第1段落をそのまま引用してみよう。

ここ数日、 一冊の本を前に、 ぼうぜんとしている。 ただ、 圧倒されているのだ。 茨木のり子さんが七年ぶりに出した詩集 『倚(よ)りかからず』 (筑摩書房) である。

少なくとも、 上坂氏の文章のように何段落も読むことなく、 「ぼうぜん」 の意味をここだけで解することができる。 上坂氏も、 「一呼吸外す」 をせめてこのレベルの文章にしておいてほしかったものである。

上坂氏の文章力の問題は、 それでもまあいいことにしよう。 それより問題なのは、 ぼうぜんでも絶句でもいいがその対象がそれに相応しいかどうかだ。 茨木のり子さんの詩集に 「ただ、圧倒」 され、 「ぼうぜんと」 することは、 まああるかも知れない。 しかし、 茅氏のエッセイがそれとなると、 しかも絶句の理由が上坂氏がいうように 「一呼吸外す」 その外し方がすばらしい、 とまで絶賛するほどのものとは到底思えないのである。

確かに、 茅氏はこの種のエッセイのうまい人である。 以前、 日本経済新聞の夕刊にある 「あすへの話題」 というコーナーの連載を担当していたことがあり、 そのときの執筆内容を茅氏自身がコピーし、 本にまとめて関係者に配っていたが、 これは非常に面白い読みものである。 しかし、 「ウェーブ」 欄自体がもともと 「一呼吸外す」 場であるのは、 電気新聞全体を見れば明らかなのであって、 茅氏以外にも 「一呼吸外」 している執筆者は山ほどいる。 そして、 その外し方は茅氏と同様すばらしいと高木には見える。

では、 なぜ茅氏の文章を取り上げたのか? 締切りが近くて、 たまたま手近にあった電気新聞に茅氏の文章が載っていたので、 それをネタにしてしまったということも考えられなくはないが、 それは少々不自然である。 ここで頭をよぎるのが茅氏の職業的な立場である。

茅陽一氏は元東大総長・茅誠司氏を父に持ち、 有名なローマクラブの会員であり、 さらには社会・エネルギーシステム工学の大家である。 エッセイ 「一呼吸外す」 で上坂氏が茅氏を持ち上げるそのやり方を見ていると、 このような権威者にすり寄る思考停止したモノ書きの姿しか、 高木には想像することができないのである。

思考停止した作者による書物をいくら読んでも何の面白味もない。 かれらは権威におもねり、 権威から得た情報を咀嚼せずに流すだけの存在だ。

考えてみれば、 「原発を見に行こう」 で上坂氏が自分のことを再三 「素人」 としているのも欺瞞だ。 世の中どこの素人が、 関係者に 「見たい」 と口走っただけで技術者の同行まで受け、 8ヵ国もの原子力施設をめぐる旅ができるのか。 一連の旅行には 「自費で参加」 したとしているが(同書p. 22)、 同行した技術者の手当ても 「自費で」 したのか。 このようなことが可能であること自体、 すでにこの人が素人ではないことの証左であるはずだ。

上坂氏は、 おそらく素人という立場が自らの思考停止状況の隠れみのになることをよく知っているのだろう。 だが、 原子力技術のプロではなくてもモノ書きのプロではあるはずの人間であり、 プロには最低限の矜持というものが必要だ。 「渦中に飛び込む主義」 (同書p. 22) などというが、 これだけお膳立てしてもらっておいて、 あたかも自らの突撃精神で成し遂げられたことであるかのように書くのは、 おこがましいにもほどがある。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆

というわけで、 高木はこの本は (少なくとも資料集的価値を除いて) まったく読む価値がないと考える。 専門書や資料の充実した図書館で調査を行うのに比べれば、 資料集的にこの種の本を使うことは一般的に効率が悪いから、 結局この本には何ら価値を見いだすことができない。

もし原子力施設の実情を知りたいと思われるなら、 こんな本を読むよりまずは国内の原子力発電所を訪問されることをお勧めする。 東京電力をはじめ、 各社のホームページで見学の方法等が案内されているはずである。 ご参照されたい。


更新履歴

  • 1999. 11. 4 「電気新聞」記事の引用を正確にするため変更
  • 1999. 11. 3 初稿

高木 亮 / TAKAGI, Ryo webmaster@takagi-ryo.ac
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